桃生城と太田金山
一 桃生城(綜合学習)
私が東北大学教育学部を卒業して最初の赴任地が飯野川高校定時制桃生分校(現石巻市)で、今を去る50年も前の昭和32年のことでした。桃生町は『続日本紀』(760)に「大河を跨ぎ竣嶺を凌ぎ、桃生城を作り、賊の肝胆を奪う」と記された蝦夷平定の前線基地として早くから正史に登場しています。
桃生城 小野寺 幸男
昨夜、多賀城の高崎寺(現在は多賀城廃寺と言っています)で、心づくしのもてなしを受けたという華達という坊さんは、夜道をとぼとぼと歩き漸く中山の柵(佳景山)についたのは、東の空もしらむころであった。坊さんは、とうとうたどりついた目的地を眼前にして、かたわらの石に腰をおろして疲れを休めながら考えこんだ。過去の印象が強くよみがえり、早くも都への恋しさがひしと胸にせまってくるのであった。二 太田金山跡
炭焼藤太の竈の火がどうやら桃生町太田に飛び火したようです。炭焼藤太のHPの終盤の時、頭に浮かんだのが50年前の『桃生村誌』の調査のとき、鮮やかな白い石英層に茶褐色の帯状の層があり、説明をしてくれた人が「これが金鉱石です」と指さされた時の光景です。さっそく新しい『桃生町史』編纂主幹の千葉昌子さんに電話をしたのが始まりとなりました。
桃生町太田の式内社日高見神社の近くにある遮那山長谷寺は、平安末期から鎌倉初期と推定されている十一面観音を本尊としています。お寺に入る分かれ道に写真のような標柱が立っています。その脇の標柱には「太田金山ミヨシ掘跡」とあります。「ミヨシ掘」とは一体なんでしょう。
「家康公の山例五十三箇条」に「山金、柴金、川金、何方に有之候とも勝手次第掘取候儀不苦事」(石川博賢著『日本産金史』)とあります。
砂金には二つの形態に分類されます。一つは沢や川底に堆積した「川金」です。他はかって川底であったのが隆起をして陸となった土中、もしくは金鉱石が風化した場所、またはその付近に密度濃く含まれる砂金です。陸のために大概は雑草・雑木に覆われ、この小柴の根元にある砂金なので「柴金」と言っています。
砂金は何千万年という単位で母岩から飛び出した金粒ですので、採取すると姿を消します。戦国時代になると坑道を掘り進め、金鉱石を掘り出し、砕き、石臼で磨り、粉状にして、「ねこ」という筵で金の比重(19,3)の重いのを利用して水で砂金以外のものを流し(ねこ流し)砂金を採取します。これが「山金」です。
三 周辺の産金地を訪ねて
付けたり1 涌谷産金遺跡
平成21年のゴールデンウイークの最終日に、私の主治医・パソコンのお師匠さんである加藤先生と涌谷に出かけてきました。目的は涌谷町(遠田郡)が日本で有名な産金史跡であること、もう一つは地質・鉱床学の泰斗渡邊萬次郎教授の描いた「黄金橋付近スケッチ みよし掘り跡」の「みよし掘り跡」に出会うためです。
聖武天皇が天平13年(741)、全国に国分寺・国分尼寺の建立せよと詔を下しました。陸奥国分寺は伊東信雄教授によって、昭和30年から発掘調査が進められ、遺構の全容がわかりました。その中の遺物に重弁蓮華文丸軒瓦(弁数8)があり、これが涌谷の黄金山神社周辺から出土した重弁蓮華文丸軒瓦(写真、弁数6)と弁の数は違いますがよく似ています。ということはこの付近に寺院があったことになります。神社の縁の下にその土台石が残されており、その建物が涌谷町で発行した『黄金山産金遺跡』の表紙(写真)の赤い建物で「六角円堂」です。奈良県の当麻寺に六角宮殿(厨子)、八角円堂は法隆寺にその例があります。
聖武天皇の天平21年(749)、小田郡から黄金が産出し、陸奥国司百済王教福(キョウフク)が900両(13,5キロ)の金を朝廷に献納しました。天皇はたいへん喜び年号を天平勝宝と改元したことが「続日本紀」に記されています。
涌谷町立史料館で「みよし掘」への道順を聞きました。現場は黄金山神社のすぐ裏ですが、クルマで行くためには神社前から北上して小里まで行き、南下して成沢まで行くと「黄金洗沢みよし掘跡」への標識があり、左折して暫く東進すると「黄金洗沢遺跡」の標柱が立っています。標柱には「林中には直径2〜5メートル程の地面を掘りくぼめた穴が数多く分布する。天平産金に関連した」と記されてています。この状況については前記した「太田金山跡」の渡邊萬次郎先生の「みよし掘跡のスケッチ」を見て下さい。
付けたり2 南三陸町・本吉町を訪ねて
マルコポールの「東方見聞録」に「黄金の国ジパング」とありますが、金を産出するのは東北地方(出羽・陸奥)が中心で、その中でも「みちのく」の東山地方と呼ばれる東磐井郡・本吉郡・気仙郡に集中しています。この三郡のうち気仙と東山地域の金や鉄に関する研究報告は多いようですが、本吉郡は前述の太田金山跡同様に少ない気がします。知られているのは、近代以後の大谷鉱山と鹿折金山ではないかと思われます。
五月も終わる頃、南三陸町歌津出身で郷土史に強く関心を持っておられる三浦正義の案内で、南三陸町・本吉町・気仙沼市を訪れてきました。
その目的は産金関係の資料館「大谷鉱山歴史資料館」と「鹿折金山資料館」を訪ねることと、南三陸町の佐藤正助さんを中心とする研究グループが、平成19年に「南ふるさと研究会」を立ち上げ、会誌の創刊号で「特集 南三陸町の産金遺跡」に触発されたからです。収穫は「本吉郡いたるところに金山あり」ということを知ったことです。このことについて報告してみたいと思います。
「大谷鉱山歴史資料館」を目指す私たちは、途中志津川の先で左折する県道206号に入り、クルマ一台が通れる細道を北上し、馬籠までの県道の中ほどの払川(ハライカワ)に寄りました。近くの方のご案内で千本桂から田束山に向かう道脇のズリ(採掘された低品位の鉱石)の山積みを見た後、土砂で埋まった金山沢の坑口跡へ案内されました。『歌津町史』には「田束山中に金山沢と言うところあり、往昔金を掘った所」とあります。前記の「南三陸ふるさと研究誌」に小野寺寛氏が「払川調査」として「峰伝いに上って行くといたる所に炭窯跡のように地形が大きく変わるなど掘削した跡が多くみられた。土金を掘った跡と思われる」とあります。
この後、伊里前川に沿う県道を東に進み伊里前に出ました。この辺は数年前に三浦さんと『仙台領の街道』を書くときに踏査した所でなつかしく思い起こしながら大谷に向かいました。
途中、小泉川を渡った付近の赤崎海岸では最近まで砂金をとっていたとの三浦さんの話でした。『本吉町誌』には「砂金ゆかりのある地名」の中に「登米沢(トイマザワ)海岸=砂金床」とあり佐久間洞巌の『奥羽観蹟聞老志』に「砂金層の海岸」とあり「浜金」なのでしょう。
大谷鉱山歴史資料館は気仙沼線本吉駅で降り、国道45号を左折します。資料館前の「大谷鉱山の沿革」には、昭和3年にさく岩機導入、太平洋戦争中数年の休山があり、昭和51年に閉鎖とあります。館内には近代設備の機器に交じって砂金採取の道具(ネコ、磨り臼、カッチャなど)が展示されています。この辺で気仙沼市との境にある岩尻村で四代藩主綱村の詠を紹介して本吉町を離れることにします。
ふることのためしを誰もいわじりに 今を春べと黄金花咲
付けたり3 気仙沼市を訪ねて
気仙沼線気仙沼駅付近を古町と言います。「気仙沼旧事記」に昔は大坂町といい、大坂より金掘が来て一処に住んだのでこの名がありますと記されています。
写真の「御本判」には「文禄三年 気仙沼 卯月吉日」と書かれています。御本判とは金を掘る人の許可証で、文禄3年(1594)に発行されていますので、豊臣秀吉の支配下にありました。所蔵は気仙沼市加藤路子さんです。よければ私のホームページ本局「金山一揆」をご覧下さい。
『気仙沼市史 V』の「気仙沼の金山」という項目に「鉱山分布図」とともに6カ所の金山の説明があります。分布図の黄色の着色は私がしましたが、砂金層の多いのには驚かされました。その説明の中に長柴金山(新城村)について、寛永15年(1638)に渡戸の五左衛門が銅山として開発、近くに石臼や坑夫たちの墓などが散在するとあります。
ここは私が鼎ヶ浦高校に勤務していた昭和43年に、社会班の生徒たちと民俗調査に入った時に石の磨臼があり、聞き書きの中に「渡戸千軒」「縫い笹」の伝説がありました。「縫い笹」とは坑夫たちのために女性(名は覚えていません)がせっせと雑巾を縫って坑夫たちにみついだので、鉱山のまわりの笹に縫い目のある笹が生え、自生しているということでした。今回の気仙沼探訪もこの笹を確認したかったのですが、遠いのと足が言うことをきかないので断念しました。
鹿折金山は明治37年、アメリカのセントルイス万国博覧会に2,25キログラム、自然含有量83パーセントという金鉱石を出品し、モンスターゴールド(化け物金)として話題になり、日露戦争を有利に導いたことで有名です。『気仙沼市史』には承応元年(1652)に唐桑村の古館屋敷勘右衛門が採掘を始めたとあり、天和3年(1683)の記録には280人の掘り子がいたと記されています。
帰路、上鹿折の板碑群に寄りカメラに収めてきました。もとは埋まっていたものを掘り起こし集めたものと説明板にありました。
終わりに
平成19年5月、「みやぎ街道交流会」がスタートし、私は皆さんと栗原市の奥州街道を楽しく歩き始め、炭焼藤太の伝説に出会いました。そうして平泉文化の基が砂金であることを知り、50年前に桃生町に金鉱石のあることを思い起こし、この稿を書き起こしました。 高倉淳のホームページ
その契機は、仙台領の東磐井郡・気仙郡・本吉郡のうち前の2郡は多くの研究成果が報告されているのですが、桃生城のある地域の産金の知名度はほとんど皆無ですのでホームページを通して発信することにしました。
この稿は「仙台郷土研究会」会員の名村栄治さんの助言を得ながら書き進めてきました。「仙台郷土研究」に平泉との関係論文を発表し、これからも続けるそうです(「みちのく金山考(262)」「産金史研究と雪沢金山(263)」「平泉諸寺院の系譜(277)」「いわゆる「中尊寺供養願文(276)」)。名村さんとの往復書簡に「あの狭い範囲に、川金、柴金、山金採掘跡が混在して残っているわけで、我が国産金史の縮図と称しても決して過言でないと思います」とあるのを紹介して終わることにします。