| 本作品について |
|
本作品“あなたの産まれた日に”は、2009年12月から、
筆者である加古いくが管理するエヴァ小説ウェブサイト
“のべるすけいぷ”で連載されました。
オムニバス形式の連作であり、毎年のシンジとアスカの誕生日に合わせ、一話ずつ公開されました。
内容は、シンジまたはアスカと誕生日を同じくする著名な人物を紹介していくだけのものでして、
特にストーリーなどがあるわけではありません。
本作品を御覧になった読者の皆様には、ひとことで結構ですので、
是非、加古いくまで御意見・御感想をお寄せ下さいませ。
・・・と、いつもは書くんですけど、そう言われても困りますよねぇ・・・。
どうか、ご無理なさらず。
以下、各話の補足と言い訳です。
|
第一話:雄弁は銀、沈黙は金
トーマス・カーライル
(1795年12月4日 ― 1881年2月5日)
|
-
この話は、2009年12月4日の、アスカの誕生日を記念して書かれたものです。
-
“Sartor Resartus”
は、何度か邦訳が出版されていますが、そのたびに邦題が変わります。
『衣服哲学』
だったり、
『衣服の哲学』
だったり、
『衣裳哲学』
だったり。
どんな内容かは、ここで短く説明するよりも、
あちこちのブログなどでご覧頂いた方が早かろうと思います。
-
“沈黙は金”が“Sartor Resartus”に出てくる箴言であるのは間違いないのですが、
これをカーライルの言葉であるとは言い切れない事情があります。
この箴言は、登場人物であるドイツ人学者Diogenes Teufelsdröckhの書いた文章として、
「スイスの碑文にも“Sprechen ist silbern, Schweigen ist golden”とあるように、・・・」
と、引用する形で書かれていまして、カーライルの言として書かれているわけではありません。
しかし、その学者自体が架空の人物なので、
そのような「スイスの碑文」が実在するのかどうか、分かっていないのです。
そのようなものはなく、この言葉もカーライルの創作であるとする説が有力ではあるようなのですが。
そういうわけで、「雄弁は銀、沈黙は金 ― トーマス・カーライル」と引用される場合もある一方で、
慎重に、「雄弁は銀、沈黙は金 ― トーマス・カーライル『衣裳哲学』に見える言葉」
などと引用されることもあるようです。
-
トーマスの妻、
Jane Welsh Carlyle
が亡くなったのは1866年、トーマスが70歳のときのことです。
現代でもそうですし、当時であればなおさら、リタイアしておかしくない年齢です。
それにも関わらず、彼はエディンバラ大学の学長に任命され、これを引き受けました。
しかし、さすがに著述活動の方は、短いエッセイが主になったようです。
彼が書いたJaneの墓碑銘を引用しておきます。
In her bright existence she had more sorrows than are common;
but also a soft invincibility, a clearness of discernment,
and a noble loyalty of heart, which are rare..
For forty years she was the true and ever-loving helpmate of her husband,
and by act and word unweariedly forwarded him,
as none else could, in all that he did and attempted.
She died at London, 21st April, 1866,
suddenly snatched away from him,
and the light of his life, as if gone out.
彼女は、その輝かしき生涯において、並々ならぬ労苦を味わった。
しかし、その芯の強い柔和さ、明晰な判断力、そして気高い誠実さは、たぐい稀なものであった・・・。
40年にわたり、彼女はその夫にとって、真実の、そして変わらぬ愛を捧ぐ伴侶であった。
彼が為したか試みたすべてのことについて、彼に行動と言葉とを根気良く贈り続けたことは、
他の誰も為し得ないところであった。
1866年4月21日、彼女はロンドンにて世を去り、彼から突然奪われてしまった。
それは彼の人生のともし火が掻き消えてしまったに等しい。
拙い訳文で申し訳ございません。
たぶん、もっといい定訳があるはずだと思います。
-
カーライルと親交の深かった主な著名人としては、
テニスン、
ラスキン、
“クリスマス・キャロル”
のディケンズ、
英国首相を務めた
ディズレーリ
などの名前が挙がります。
彼らは、
カーライルのチェルシーの自宅にしょっちゅう出入りしてたそうです。
カーライルは日本でも紹介されていて、
内村鑑三、
新渡戸稲造、
夏目漱石などが影響を受けたそうです。
漱石は、ロンドン留学中に、そのチェルシーの家を訪れていて、帰国後にそのことを書いてます
(「カーライル博物館」)。
|
第二話:剣の舞
アラム・ハチャトゥリアン
(1903年6月6日 ― 1978年5月1日)
|
-
この話は、2010年6月6日の、シンジの誕生日を記念して書かれたものです。
-
アラム・ハチャトゥリアンは、帝政ロシアの地方都市ティフリス
(現在のグルジアの首都
トビリシ)
で生まれたアルメニア人です。
プロコフィエフ、
ショスタコーヴィチ
と並び、ソヴィエト三大作曲家と称されました。
-
アラム・ハチャトゥリアンの名前は、各言語で主に以下のように綴られます。
-
アルメニア語:
“Արամ Խաչատրյան”
(アラム・ハチャトゥリアン)
-
ロシア語:
“Ара́м Ильи́ч Хачатуря́н”
(アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン)
-
グルジア語:
“არამ ხაჩატურიანი”
(アラム・ハチャトゥリアン)
-
英語:“Aram Khachaturian”(アラム・ハチャトゥリアン)
-
生い立ち
-
貧しい家庭に育ったハチャトゥリアンは、1921年に兄に呼ばれる形でモスクワに行くまでは、
音楽教育を受けたことはありませんでした。
-
最初、
グネーシン音楽大学でチェロを習いますが、
1925年にミハイル・
グネーシンが作曲クラスを作ると、彼もそこに加わりました。
-
1929年に、当時のソヴィエト連邦で最高峰の音楽学校とされた、
モスクワ音楽院に移籍します。
-
1978年5月1日に世を去りました。享年74歳でした。
-
彼はアルメニアの英雄の一人であり、生国のグルジアではなく、
アルメニアの首都エレバンに、
他の一流のアルメニア人芸術家たちと並んで埋葬されました。
-
1998年には、アルメニアの50ドラム紙幣に印刷される栄誉を得ました。
-
職歴
-
ソヴィエト作曲家組合に所属し、いくつかの重要なポストに就きました。
-
1943年、ソヴィエト共産党に入党します。
-
1948年、いわゆる“ジダーノフ批判”を受け、公職を追放されます。
-
1951年、グネーシン音楽大学とモスクワ音楽院の教授の職に就きます。
-
1957年、公職に復帰し、再び作曲家組合の事務局に席を得ました。
-
1958-1962の間、
第5回最高会議の代議士を務めました。
-
音楽活動
-
ハチャトゥリアンは、民俗楽派に分類される作風で、
特にカフカース
(黒海と
カスピ海に挟まれた地域。
アルメニアもグルジアもこの地域に属する) の音楽的特色を西洋音楽と融合させた、
情感溢れる旋律と力強いリズムを特徴とする曲を書きました。
-
モスクワ音楽院卒業当時の1934年に作曲した“交響曲第一番”がロシア国内で注目を浴びました。
-
“ピアノ協奏曲” (1936年)、
名ヴァイオリン奏者ダヴィッド・
オイストラフに捧げた“ヴァイオリン協奏曲” (1940年) の成功で世界的に有名になりました。
-
ピアノの生徒のための小品集“子どものためのアルバム” (Children's Album)
は、ハチャトゥリアンの音楽のダイジェスト版のようなもので、入門編として手っ取り早いでしょう。
-
有名なバレエ作品“ガヤネー”
(日本では、フランス語読みの“ガイーヌ”として広く知られています) は、
最初1939年に、“幸福” (Happiness) という題で制作されました。
-
1942年に、第二次世界大戦の影響で
キーロフ・バレエがペルミ
に疎開していた際に、“幸福”をベースとして“ガヤネー”が書かれました。
-
“ガヤネー”は、カフカース地方のコルホーズを舞台とする、社会正義とロマンスの物語です。
そういう意味では、当時のソヴィエト連邦の芸術政策に忠実な作品と言えるでしょう。
-
“ガヤネー/Gayane”は、劇中のヒロインの名前でもあります。
-
有名な“剣の舞”は、
第四幕のクルド人達の踊りの場面で
使われた曲です。
-
作品リストが
こちらにあります。
-
ジダーノフ批判
- 共産党中央委員会書記アンドレイ
・ジダーノフが1948年2月10日に発表した布告を指します。
-
布告は、ショスタコービッチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、
その他のソヴィエトの作曲家を、“形式主義者” (formalist) であり、
“人民向けでない” (anti-popular) として名指しで批判しました。
-
それらの作曲家は、ソヴィエト音楽界におけるいわゆる“巨人”の名声を確立しており、
世界的にも20世紀を代表する作曲家としての評価を得ていました。
それにも関わらず、彼らは自己批判を強いられました。
-
これらの作曲家の作品は、anti-popularどころか、大衆の間でもたいへん人気があったようです。
当時のソヴィエト政府の芸術政策は、伝統的な芸術は資本主義社会の堕落の産物であって、
社会主義における芸術は社会主義の正義を表現するものでなくてはならない、
というものでした。
-
ハチャトゥリアンへの批判は、後に“第三交響曲”と題されることになる、
“Symphonic Poem”に対してでした。
しかし、ハチャトゥリアン自身は、これを共産主義への賛歌として書いたつもりだったそうです。
彼の言葉が残っています。
“I wanted to write the kind of composition in which the public would feel my
unwritten program without an announcement.
I wanted this work to express the Soviet people's joy and pride in their great
and mighty country.”
拙い訳で恐縮ですが。
「わたしは、標題を説明抜きで大衆に感じ取ってもらえるような曲を書きたかった。
この作品でわたしは、
偉大かつ強大な国家におけるソヴィエト人民の歓喜と誇りとを表現したかったのです。」
-
ハチャトゥリアンはジダーノフ批判に大いに打ちのめされたようです。
“Those were tragic days for me... I was clouted on the head so unjustly.
My repenting speech at the First Congress was insincere.
I was crushed, destroyed. I seriously considered changing professions.”
「わたしにとって、当時は悲劇的な日々でした・・・。
不当に殴られた思いでした。
最高会議におけるわたしの自己批判は不誠実なものでした。
わたしは打ちひしがれ、吊るし上げられました。
仕事を変えることを真剣に考えました。」
-
以上の解説は、Wikipedia
およびNew World Encyclopedia
の記述に拠っています。
|
第三話:薔薇の沈黙
ライナー・マリア・リルケ
(1875年12月4日 ― 1926年12月29日)
|
-
この話は、2010年12月4日の、アスカの誕生日を記念して書かれたものです。
-
作品中で紹介しているリルケの生い立ちや詩作、女性遍歴などは、
Wikipedia
の記事に基づいています。
- 1875年、当時
オーストリア=ハンガリー帝国領であった、
ボヘミアの首都
プラハに生まれました。
- リルケを単純に「ドイツ人」と言っていいかどうかは微妙なところです。
というのも、そもそも「ドイツ人」とは何か、
という問題があるからです。
歴史的に言うと、
プロイセンの台頭以前のドイツの中心は
オーストリアであり、この頃のオーストリアは、少数のドイツ人が他民族を支配する体制でした。
リルケの伯父は貴族でしたから、リルケの一族は、おそらく、
自らを「ドイツ人」であると考えていたことでしょう。
一方、文献は、「ボヘミア人」「オーストリア人」「ドイツ語詩人」などと、
慎重な表現をしたものが多いようです。
- リルケはもともとRene Karl Wilhelm Johann Josef Maria Rilke
(ルネ・カール・ヴィルヘルム・ヨハン・ヨーゼフ・マリア・リルケ) として生まれました。
Rainer Maria Rilke (ライナー・マリア・リルケ) と改名したのは、21歳のとき、
ルー・アンドレアス・
ザロメ夫妻の後を追ってベルリンに移った頃からです。
- リルケには姉がいたのですが、生後一週間ほどで死んでしまいました。
これを悼んだ母親は、リルケが5歳になる頃まで女の子の服を着せて育てていました。
この母親は些か夢想的なところがあり、リルケはどちらかというと実直な父親の方を好んでいたそうです。
1884年、リルケが陸軍幼年学校に入る前年に、両親は離婚します。
-
創作活動
- 恋愛沙汰で商業学校を退学になった1891年、ウィーンの商業誌の懸賞に応募した詩が掲載され、翌年から各誌に詩作を発表するようになります。
- 1894年、3年間交際していた恋人のために書いた詩をまとめた“Leben und Lieder” (生命と歌)
を刊行しました。事実としては、これがリルケの処女詩集です。
- 貴族の伯父さんの援助を受けて勉強し、1895年に大学入学試験に合格します。
まずプラハ大学で、続いてミュンヘン大学で学びました。
この間、多くの作家や詩人と積極的に交流し、詩や散文の創作を続けました。
この頃の詩作は、主に恋愛詩を中心とした抒情詩が多かったそうです。
- 1899年、詩集“Mir zur Feier”
(わがための祝い) を出版します。
リルケはこれを自身の処女作品と位置付けたようで、それ以前の詩集は生涯再刊しなかったそうです。
若さに任せて書いた恋愛詩の数々が人目に触れることは、さすがに気恥ずかしかったのでしょう。
- 1899年と1900年の2回にわたり、ザロメの案内でロシアを旅行し、トルストイを含む多くの芸術家と交流を持ちました。
このロシア旅行はリルケに大きな影響を与えたようで、それは1905年刊行の“Das Stunden-Buch” (時祷詩集) に結実します。
- 1901年4月、彫刻家のClara
Westhoffと結婚し、12月には長女が生まれます。
結婚を期にリルケの父親が援助を打ち切ったため、仕事を探さないといけなくなりました。
見つけた仕事は“Auguste Rodin” (ロダン論) の執筆でした。
パリに移ったリルケはロダンのアトリエに通い、
大きく影響を受けて“Dinggedicht” (事物詩) に開眼します。
その成果は、1907年の“Neue Gedichte” (新詩集) となって出版されます。
- 1910年、パリでの生活を題材にした入魂の小説“Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge” (マルテの手記) を出版します。完成後暫くは虚脱状態だったそうです。
- 1912年、代表作の一つ、“Duineser Elegien” (ドゥイノの悲歌) の執筆を始めますが、第一次大戦のために中断を余儀なくされます。
再開できたのは1922年。出版は1923年になります。
- もう一つの代表作、“Die Sonette an Orpheus” (オルペウスに捧げるソネット) も、同じ1923年の出版でした。
リルケはこの年から健康状態を悪くし、スイスのValmontにあったサナトリウムで療養生活に入りました。
- 死因に関する伝承
- リルケの死因は白血病であったとされています。
Wikipedia
英語版から引用します。
Only shortly before his death was Rilke's illness diagnosed as leukemia.
He suffered ulcerous sores in his mouth, pain troubled his stomach and intestines and
he struggled with increasingly low spirits.
Open-eyed, he died in the arms of his doctor on December 29, 1926 in the Valmont
Sanatorium in Switzerland.
He was buried on 2 January 1927 in the Raron cemetery to the west of Visp.
(中略)
A myth developed surrounding his death and roses, which we see as a constant motif in
his work.
It was said:
"To honour a visitor, the Egyptian beauty Nimet Eloui, Rilke [had] gathered some
roses from his garden.
While doing so, he pricked his hand on a thorn.
This small wound failed to heal, grew rapidly worse, soon his entire arm was swollen,
and his other arm became affected as well", and so he died.
- リルケが体調を崩したのは1923年で、 サナトリウムでの療養生活は亡くなる1926年まで続きました。
つまり、彼は慢性疾患に冒されていました。
- 一方噂の方は、腕の傷と浮腫の描写から、彼の死因が敗血症であったことを示唆しているようです。
しかし、そうだとすれば、彼が傷を負ったのは亡くなる数日前、クリスマスの頃のはずです。
温室栽培でない限り、バラは真冬には咲きません。
- なお、嘘の死因を流布させたのがリルケ本人であるというのは本作の著者であるわたしの創作であり、
何の根拠もないことを明記しておきます。
- 詩歌の分類
- 次の3つが詩歌の三大区分であると言われています。
- 叙事詩 (英/Epic, 独/Epos)
物事、出来事を記述する詩。
一般的には民族の英雄や神話、
民族の歴史として語り伝える価値のある事件を出来事の物語として語り伝えるものを指す。
- 抒情詩 (英/Lyric, 独/Lyrik)
詩人個人の主観的な感情や思想を表現し、自らの内面的な世界を読者に伝える詩。
- 劇詩 (英/Drama, 独/Drama)
韻文で書かれた劇文学。
- 事物詩
(英/Thing Poem, 独/Dinggedicht) というのは、もっぱらリルケの作風を指す語であって、
メジャーな分類ではないようです。
- リンク
|
第四話:青山の鶴
トーマス・ブレーク・グラバー
(1838年6月6日 ― 1911年12月16日)
|
-
この話は、2011年6月6日の、シンジの誕生日を記念して書かれたものです。
- 生い立ち
- スコットランドで生まれたトーマスは、1859年に上海に渡り、
ジャーディン・マセソン商会
(現在のホームページはこちら) に加わりました。
-
ちなみに同社は日本に進出した初の外資系企業であり、最初の代理店は横浜支店でした。
その社屋は横浜初の外国商館であり、「英一番館」の名で知られました。
現在そこにはシルクセンター
(国際貿易観光会館) が建っています。
- その年の9月19日には長崎に趣き、同社の日本で2つ目の代理店を設立します。トーマス21歳の若さでした。
- 1861年、ジャーディン・マセソンから独立し、自身の会社を興します。所謂「グラバー商会」です。
- 戊辰戦争が予想外に早く終結して武器販売が伸び悩んだことや、
諸藩からの売掛金の回収が滞ったことで、1870年にグラバー商会は破産します。
- 破産と相前後して、トーマスは生涯の伴侶ツルを得ました。
- 明治初期、日本人の国際結婚には政府の許可が必要で、かなりメンドウなことでした。
トーマスとツルも、その意味での正式な結婚はしなかったようです。
- なお、日本で最初の正式な国際結婚は1873年3月14日のことであり、
それを記念して3月14日は「国際結婚の日」とされています。
- 1871年、次男トーマス・アルバート・グラバーを儲けました。
日本名を倉場富三郎と言いました。
- 1876年、長女ハナを儲けました。ハナの子孫は2011年の現在もグラバー家の血筋を継いでいます。
- 晩年は三菱本社の顧問に迎えられ、東京に移りました。
- 1899年、ツルが亡くなりました。胃癌でした。
- 1911年、腎臓炎のため世を去りました。長崎市内の坂本国際墓地にツルと共に埋葬されています。
- 家族
- トーマスは、ツルとの結婚以前にも、広沢園という女性と内縁関係にあり、
長男 (梅吉。生後4ヶ月ほどで亡くなりました) も儲けていました。
ツルとの結婚のときには既に離縁していたようです。
- ツルは、大阪で造船業を営んでいた淡路屋当主談川安兵衛の娘で、
トーマスが英国留学の世話をした薩摩藩出身の五代友厚 (後の大阪商法会議所初代会頭) の紹介で出会いました。
- 娘と言っても実子ではなく、安兵衛の姪をまだ幼い時分に養女に迎えたものだそうです。
- ツルは初婚ではありませんでした。最初の夫は豊後岡藩士の山村国太郎と言いましたが、
実家と婚家との政治的立場の違い (要するに攘夷か開国か) から、離縁されてしまったそうです。
国太郎との間に儲けた娘はツルが連れ出したようですが、
トーマスとツルの結婚を機に山村家に戻されたようです。
- 岡藩は優れた船大工が多く出たことで知られており、淡路島に造船所も持っていたようです。
談川家は武家ですが、
岡藩から淡路島の造船所経営のために大阪に派遣されていたとの説もあるようです。
- 長崎市役所に保管されている戸籍の記録では、
次男富三郎の生母は「加賀マキ」であるとされているそうです。
一方で、それは誤りでツルが生母であるとする研究結果もあるようです。
(その場合、加賀マキの子は富三郎とは別の子ということになります。)
- 富三郎の生年を1870年とする資料もあるようですが、それは誤りです。
確かに明治3年12月8日の生まれではありますが、それは即ち西暦1871年1月28日なのです。
当時はまだ旧暦でした。
- 富三郎は、太平洋戦争の混乱の中、実に不幸な晩年を送ることになるのですが、それはまた別のお話。
- 長女ハナはツルの実子でした。
- トーマスが日本人女性に産ませた子供の数は定かではありませんが、
全部で5人だったとする説もあるようです。
広沢園にしろ加賀マキにしろ、若い頃のトーマスが所謂「隅に置けない人」
であったらしいことが窺えます。
ところが、ツルとの結婚以後、その手の浮いた話はふっつりと途絶えます。
年齢的なものだったのか、それとも、紹介者の五代の手前、遠慮したのか、
はたまた、ちょうどその頃のグラバー商会の破産によって遊興費に不自由するようになったのか、
その事情は想像するしかありません。
あるいはもしかすると、武家の姫であったツルとの出会いにより、
トーマスも「年貢を納めた」のかもしれません。
- 業績
- グラバー商会設立当初は生糸や茶の輸出を主に取り扱っていましたが、
幕末の混乱に商機を見出し、1863年頃から倒幕派諸藩への武器の密売を始めました。
これらの取引にトーマスはその商才を遺憾なく発揮し、
グラバー商会はほどなく長崎の外国商館としては最大手になります。
- 同じ頃、坂本竜馬の亀山社中とも盛んに取引がありました。
おそらくはそのためもあって、2011年の現在、
幕末モノの映像/文学/コミック作品において「グラバーさん」は代表的な登場人物の一人です。
- 同時期、西南諸藩の俊英多数のイギリス渡航や留学の便宜を図っています。
その中には、初代内閣総理大臣伊藤博文、初代文部大臣の森有礼、第4代外務卿の寺島宗則ら錚々たる面々が含まれています。
- 1865年には、長崎大浦海岸にて、日本初の蒸気機関車「アイアン・デューク号」
のデモ走行を成功させます。
- その後も、製茶工場の設立、高島炭鉱の開発、小菅修船場の設立などを手がけ、維新後も明治政府の造幣寮の機材調達や、横浜のスプリング・バレー・ブルワリー (後の麒麟麦酒) の再建などに尽力しました。
- 正に日本史に残る数々の業績が評価され、1908年に勲二等旭日重光章を授与されました。
外国人としては破格のことだったそうです。
- 「蝶々夫人」
- “Madama Butterfly”は、プッチーニのオペラとして有名ですが、それは実はデーヴィッド・ベラスコの戯曲“Madame Butterfly”から着想を得て書かれたもので、その戯曲は更にジョン・ルーサー・ロングの短編小説“Madame Butterfly”を基にしています。
したがって、「蝶々夫人のモデル」と言うときは、
ロングの小説が誰をモデルにしたのかを考えることになります。
- ロングによれば、姉のサラ・ジェーン・コレルが日本に滞在した際に聞いた話を基にしたとのことですが、
どこからどこまでが伝聞で、どこからが創作なのかは明らかにされていません。
- ツルが「蝶々さん」のモデルであるとする説は根強くあります。
談川家の家紋が蝶であり、家紋の入った着物を着ることが多かったために、
「おちょうさん」と呼ばれていたらしいことや、
グラバー邸のロケーションが小説で語られている通りであることなどが根拠とされるようです。
- 一方、ツルと「蝶々さん」の生い立ちにはあまり共通点がありません。
武家の出で、伯父の家に養女に入ったということくらいでしょうか。
「蝶々さん」の呼び名と邸のロケーションをツルから借り、それ以外の要素は創作したか、
他の複数のモデルから借りたとも考えられます。
- それにしても、没落士族の姫が周旋屋によって外国人の妾に売られる、とか、
その姫は守刀を持っていて、名誉が傷つけられたときは自刃して果てるとか、
日本に行ったことのない人物が書いたにしては随分とそれらしい筋立てであり、
サラが何らかの事件を伝聞しなければ書けないのでは、とも感じます。
それとも、当時のジャポニスムの影響は、アメリカ人の一弁護士をして日本通にさせるほどのものだったのでしょうか。
- リンク
|
第五話:独裁者の孤独
フランシスコ・フランコ
(1892年12月4日 ― 1975年11月20日)
|
-
この話は、2011年12月4日の、アスカの誕生日を記念して書かれたものです。
- フランシスコ・フランコ・バアモンデ(Francisco Franco Bahamonde)は、ガリシア出身の軍人で、
1939年からはスペインの国家元首を務めました。
- 経歴
-
フランコ家は6代続けて海軍士官を輩出しており、フランシスコも海軍士官を目指していました。しかし、米西戦争に破れたスペインに海軍士官の需要は少なく、やむを得ず陸軍歩兵学校に入学しました。
-
歩兵学校を卒業して任官したフランコは、赴任先のスペイン領モロッコにおいて、ベルベル人との間の小規模な衝突や戦争で数々の戦功を挙げ、スペイン外人部隊の司令官に任じられました。
-
1923年、フランコはカルメン・ポロと結婚しました。新郎介添人は、他ならぬスペイン王アルフォンソ13世陛下その人であらせられました。私見ですが、敬虔なカトリック教徒で、優秀な軍人であり、
遂行中の異教徒との戦争の前線軍の司令官であるフランコに対する、国内からの大きな期待が窺えます。
-
1926年、カルメンとの間の唯一の子、長女マリア・デル・カルメンを儲けました。同年、欧州最年少の将軍に昇進しました。
- 第二共和政からスペイン内戦へ
-
第一次世界大戦後のスペインでは、国王やカトリック教会、
資産家などの保守層が支持する右派独裁政権が失政を続けていました。
これに不満を持った農民や労働者は社会主義者を支持し、そこにスペインからの独立を志向していたバスク地方やカタルーニャ地方の人々が合流して、王政打倒を目指す左派(共和派)を形成し、右派と激しく対立していました。
1929年に世界を襲った大恐慌はスペインにも打撃を与え、続く選挙では左派が躍進しました。
1931年4月にはついにアルフォンソ13世が退位に追い込まれ、スペインは第二共和政の時代に入りました。
-
フランコは代表的な右派軍人と目されていて、左派が政権を取ると離島の軍政官に左遷され、
右派が巻き返すと陸軍参謀総長に任命され、と、立場が二転三転しました。
-
中道右派政権下の1934年10月、左派のゼネストの呼び掛けに応えた鉱山労働者たちがアストゥリアスで決起しました。フランコはスペイン・アフリカ軍を投入して、その鎮圧に当たりました。
死者は1,200名とも2,000名とも言われています。フランコが初めて同胞に銃を向けた争いでした。
-
1936年2月の総選挙で左派が勝ち、人民戦線内閣が誕生すると、右派の将軍たちは7月18日に反乱を起こす計画を立てました。
フランコはぎりぎりまで態度を決め兼ねていましたが、
かつて指揮したスペイン・アフリカ軍が反乱を起こすと、ようやく意を決し、
これを指揮するためにモロッコに渡りました。
スペイン内戦の始まりです。
スペイン・アフリカ軍の士官の中には、人民戦線政府に忠誠を誓う者が200名ほどいました。
その中にはフランコ自身の従兄弟もいましたが、フランコは彼らを全員処刑し、軍を掌握しました。
-
右派の反乱を受けて、大統領マヌエル・アサーニャは、妥協点を探ろうと、穏健派のディエゴ・マルティネス・バリオを首相に据えました。
バリオは18日深夜に、反乱軍の中心人物であるエミリオ・モラ将軍に電話を掛けて交渉を試みました。しかし、モラは
貴兄と意見の一致をみたなどと(反乱軍の)連中に言ったら、私が真っ先に血祭りにあげられてしまう。マドリードの貴兄も同じことが言えるんじゃないか。二人とも、もはやお互いの大衆を抑えることなどできないんだ。
と言って拒否したと伝えられています。
最早スペイン国内の対立は決定的でした。
私見ですが、何としてもスペインで社会主義革命を起こしたいソ連が全力で関わっていては、フランコが決断しようとしまいと、内戦は不可避だったと思います。
- 国家元首就任から内戦終結へ
-
国民戦線軍(右派反乱軍)の当初の試みはしかし、早々に頓挫します。
海軍と空軍の大部分が人民戦線政府側に付いたため、モロッコのフランコが海を渡れずに孤立したのです。
苦境を救ったのは、ファシスト・イタリアとナチス・ドイツでした。
両国は、最新鋭の兵器、航空機、艦船を含む義勇軍をスペインに送り込みました。
モロッコのフランコも、ドイツの輸送機で本土に渡り、モラの部隊と合流を果たしました。ピカソが描いた絵画で世界的に知られているゲルニカへの爆撃は、ドイツが送り込んだコンドル軍団によるものでした。
-
一方、人民戦線政府の内実は、共和主義者、共産主義者、無政府主義者などの寄せ集めで、
内部対立もあって協調性に欠けました。
国民戦線軍にはドイツとイタリアから義勇軍の増援と最新鋭兵器の供給があるのに対し、
ソ連からの人民戦線軍向けの支援は、ドイツとイタリアの潜水艦に沈められ、
戦況は日増しに悪化しました。隣国ポルトガルのサラザール内閣もフランコを支持し、唯一の希望であったフランスでも、レオン・ブルム率いる人民戦線内閣が退陣してしまい、支援を得られる見込みはなくなりました。
スペイン内戦は、さながら枢軸国対ソ連の代理戦争の様相を呈しました。
-
1936年10月1日、反乱軍が設置した仮政府は、フランコを国家元首 (カウディーリョ/Caudillo)
兼軍総司令官 (ヘネラリッシモ/Generalísimo) に選出しました。
反乱軍の総司令官であったホセ・サンフルホ将軍は既に亡く、この翌年にはエミリオ・モラも飛行機事故で亡くなり、
反乱軍の中心メンバーはフランコただ一人となります。
フランコ自身の意思がどうであったかは分かりませんが、
フランコ以外に反乱軍のリーダーを務められる人物はいませんでした。
-
フランコは1938年1月に内閣制度を導入して首相を兼任しました。
当時、右派の政治グループには、ファシズムを目指すファランヘ党と、王政の復活を目指す王党派の諸勢力がありました。
イデオロギー上は相容れないはずの両派でしたが、
フランコはこれらを統合して新たなファランヘ党を組織しました。
以後この党がスペイン唯一の合法政党となります。
-
最後の政府軍が1939年4月1日に投降すると、フランコは内戦終結宣言を出しました。
フランコは、教会の祭壇に剣を捧げ、
スペインが侵略の危殆に瀕しない限り二度と再び剣を取らないことを誓ったと言われています。
そしてその誓言は守られることとなります。
- 第二次世界大戦とナチス・ドイツとの関係
-
内戦ではファシスト国家の支援を受けたフランコでしたが、軍事同盟には踏み込みませんでした。
1939年9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったときも、スペインは中立を守りました。
フランコは、反ソ・反共という点では枢軸国と共通していましたが、一方でイギリスとの関係も重視していたようです。
内戦が終ったばかりのスペインには参戦に足るだけの国力が無かったということもありましたが、
もしドイツ側で参戦すれば、スペインに僅かに残された海外植民地であるカナリア諸島とスペイン領モロッコは、イギリス軍の侵入を受けたことでしょう。
フランコの支持層にファシスト勢力がいたことは事実ですが、
フランコ自身は保守主義者であってファシストではなく、ヒトラーとは政策面で断絶がありました。
敬虔なカトリック教徒であるフランコは、ヒトラーが教会を弾圧したことに特に不満だったようです。
-
1940年6月にフランスに勝利したドイツは、地中海と北アフリカのイギリス軍への圧力を強めるため、
スペインを参戦させる計画を立て始めました。
10月には独西首脳会談が設定され、その席上、ヒトラーはフランコに参戦を強く迫りました。
これに対してフランコが要求した見返りは莫大であり、会談は物別れに終りました。
人を見切るのが早いヒトラーでしたが、フランコもここで見切られたようで、
「これ以上フランコと話をするくらいなら歯を抜かれた方がマシだ」と評したという話が伝わっています。
- とはいえ、フランコがドイツのために何もしなかったわけではありませんでした。
スペイン領内の港湾施設をドイツ海軍の使用に供した他、1941年6月にヒトラーがソ連に侵入すると、義勇軍を東部戦線に派遣しました。
このような限定された共闘関係は1943年まで続きましたが、戦局の趨勢が連合国有利に傾くと、
スペインは完全な中立に復帰しました。
- 大戦中、フランコは、スペイン在住のユダヤ人6,000名のリストをハインリヒ・ヒムラーに提供しました。しかし、ユダヤ人を迫害していたわけではありません。
スペイン領内には強制収容所はありませんでしたし、ユダヤ人たちをドイツに引き渡したりもしていません。
それどころか、スペインの外交官は、ハンガリー、チェコ=スロヴァキア、およびバルカン諸国において、ユダヤ人に外交特権を与えていました。1940年には約4万人のユダヤ人難民がスペインに逃れていました。
1942年以降、スペイン国境は、ヴィシー・フランスやナチス・ドイツの占領地域からのユダヤ人難民に対して事実上開かれていました。
大戦中を通じてスペインはユダヤ人難民にとって安全な避難所であり続け、
フランコによって命を救われたユダヤ人は20万人に上ったと言われています。
- 圧政
-
スペイン内戦の期間を通じて、フランコは少なくとも5万人を処刑したと言われています。
その後もフランコ政権は、軍、軍警察、武装警察等を通じてスペイン全土を強権的に支配しました。
ガブリエル・ジャクソンによれば、白色テロ(処刑および監獄での餓死や病死)の犠牲者は、1939年から1943年の間だけで20万人に上ったと言います。
-
軍事法廷は、人民戦線派の残党約5万人に略式裁判で死刑判決を出し、
そのうち15,000人から25,000人を実際に処刑したとされています。
収監されたり強制労働に徴用された者もいました。
第二次世界大戦後も人民戦線派への迫害は続き、
スペインは何千人もの医師、看護婦、教師、弁護士、裁判官、大学教授、実業家、芸術家を、
処刑や亡命によって失いました。
-
バスク地方とカタルーニャ地方は内戦で国民戦線軍に強力に抵抗した地域でした。
フランコは、これらの地域から自治権(fuero)、独自の言語、文化を奪い、カスティーリャ・スペインへの同質化を推進しました。この政策は、ETAなどの反政府テロ組織の結成を招きました。
-
これらの圧政のすべてが、フランコが望んだことであったか否かは良く分かっていません。東西冷戦の頃、フランコの腹心であり後継者と目されていたルイス・カレーロ・ブランコは、「人民戦線の残党を迫害しても、共産主義の伝染を恐れる西欧諸国は、
非難するフリはしても具体的に圧力を掛けてくることはないから気にすることはない」
と進言したと伝えられています(ブランコは後にETAによって暗殺されます)。
フランコという一人の狂人がいて圧政を敷いたというよりも、
フランコの支持基盤である急進右派がこうした政策を望んでいたということのようです。
それほどスペインにおける左右両派の対立は根深いものだったのでしょう。
フランコは、死の数ヶ月前まで、すべての死刑執行令状に自ら署名し続けたと言います。
フランコがそれをどういう気持ちで続けていたかは、想像する他ありません。
- 宗教政策
-
フランコは自身を、「無神論の共産主義者」から「カトリック・スペイン」を守護する者であると自認していました。
-
フランコの時代、カトリック教会は、第二共和政下で失った数々の権威と特権を取り戻しました。
- カトリックは国教とされ、公務員はカトリック教徒でなくてはなりませんでした。
-
第二共和政下で執り行われた民事婚(宗教権威による祝福ではなく、役所に届け出ることで成立する婚姻)は、
カトリック教会で承認されない限り無効とされました。
しかし、第二共和政では民事婚の条件としてカトリックを棄教することが求められましたから、これは事実上不可能でした。
- 離婚、避妊、堕胎は禁止されました。これらはカトリックの教義に反するのです。
-
1954年には、同性愛、幼児性愛、売春は犯罪であると規定されました。
摘発されることは滅多に無かったようですが。
-
第二共和政下で成立した男女同権法は無効化されました。
女性が銀行口座を開くには、配偶者か父親の同意が必要とされました。
1970年代においてさえ、夫の虐待から逃れた妻は、家庭を放棄した罪で逮捕され収監されました。
- 西側との関係改善と「スペインの奇跡」
-
当初、西側諸国がフランコ・スペインを見る目は、
「枢軸国の支援で成立した独裁国家」というものでした。スペインは国際連合から排除され、国際社会から村八分の扱いを受けました。
-
ところが、東西冷戦の激化とともに、西側諸国はフランコ・スペインとの関係修復を模索し始めました。
スペインの地政学的/戦略的重要性は言うまでもなく、
この地が不安定化するのは望ましくありませんでした。
1953年9月の米西防衛協定は、そうした背景の下に結ばれました。
これによってスペインはアメリカの軍事援助を得られることとなり、
国際的孤立から抜け出したことで観光収入が増大し、経常収支も黒字に転じ、
国内主要産業も発展しました。
-
1950年代中ごろ好転し始めた経済状況は、
リセッションを経た1959年からは本格的な成長軌道に乗りました。
西側の国際企業はスペインに莫大な額を投資し始めました。
-
1959年、フランコはアイゼンハワー米大統領と会談しました。
お互い軍人出身ということもあって、意気投合したようです。
米西関係は飛躍的に改善され、スペインは益々発展しました。
-
1959年から1973年の間、スペインは日本に次ぐ世界第2位の経済成長を記録しました。
好景気は1974年まで続き、後に「スペインの奇跡」として知られることになります。
- 王政復古
-
スペインでは議会制民主主義がうまくいったためしがなかったので、王党派は一定の勢力がありました。
フランコも王政の支持者でした。
-
1947年、フランコは「王位継承法」を制定しました。
スペインが王国であることと、フランコが終身摂政を務めることが定められましたが、王朝は定められず、国王位は空位でした。新たな王家を迎えるのか、それともブルボン朝を復活させるのか、フランコは決めかねていたようです。
-
アルフォンソ13世亡き後、王位継承権を持っていたのは、四男のバルセロナ伯フアンでした。しかし、フアンはリベラリストだったため、フランコは受け入れ難かったようです。そこでその子息の皇太子フアン・カルロスを手元に置き、フランコが帝王学を授けました。
1969年、健康上の問題が表面化してきたフランコは、皇太子を後継者に指名しました。
-
フランコの死後、皇太子は、フアン・カルロス1世としてスペイン王に即位しました。
王はフランコの政治体制を引き継ぐものと思われていましたが、新しい憲法を制定して民主化を推し進め、自身は国家元首を退きました。
2011年の現在も、スペイン国民の間でたいへん人気の高い国王です。
- 死
-
1975年、フランコはパーキンソン病を含む深刻な健康問題から病の床に就き、11月20日に亡くなりました。
-
皇太子フアン・カルロスは、フランコを戦没者の谷に埋葬させました。
戦没者の谷は、スペイン内戦で戦死した兵士のためにフランコが建設させた国立の慰霊施設で、
地下聖堂、巨大な十字架、修道院、それに谷の地下にある墓所から成っています。
フランコは、墓所ではなく、地下聖堂に埋葬されました。
地下聖堂に埋葬された人物はこれまでに二人だけで、一人目は、アルフォンソ13世の信任厚かったプリモ・デ・リベーラ将軍です。
フランコ自身はマドリードに埋葬されることを希望していたそうです。
故人の意に反した地を選んだ理由は良く分かりませんが、
若く英明な王が、フランコの功績を高く評価していたのであろうことは窺えます。
- 評価
-
フランコの評価は分かれています。
統治の長さ、反対勢力に対する迫害、それに長年にわたるプロパガンダが、
客観的な評価を妨げているのです。
スペイン人たち、とりわけ学童たちは、40年間にわたり、
スペインを混沌と窮乏から救うために神の摂理がフランコに下されたと聞かされ、育ってきました。
時を経て、スペインは発展し、40年代初頭の残忍な弾圧は歳月の彼方に埋没しかかっています。
反フランコ派の意見が今日のスペインで多くの支持を得る一方で、
彼の政権後期の経済的な成功を今でも誇らしく記憶している市民も少なくありません。
-
多くのスペイン人、とりわけフランコ政権下で被害を受けた人々は、
フランコ時代の名残りの払拭を求めてきました。
フランコの名を冠した数多くの公的建築や道路は、元の名に戻されました。
フランコの像やファランヘ党のシンボルも除去されました。
一方で、ホセ・マリア・アスナール首相率いる保守政党は、2002年に、スペインからフランコ時代の面影を取り除く法案に反対票を投じています。
スペインは今も左派と右派に分かれ、フランコの評価についても争っているようです。
- リンク
|
| あなたの産まれた日に |