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アスカは、両手の親指と人差し指の先で湯呑みの上端の四点を保持し、おそるおそる持ち上げた。
ゆっくりと口を近づけ、ふうふう、ふうふう、と吹いている様は、エビが獲物を捕食するかのようである。
ひと呼吸置き、眉をひそめ、ゆっくりと湯呑みの端に口を付けた。
が、いくらも啜らないうちに、突然首をすくめ、そろそろと湯呑みを降ろす。
湯呑みがテーブル上で安定しているのを確かめるや否や、
両手の親指と人差し指を忙しく付けたり離したりして空冷し始めた。
「あっつ・・・」
「こうするといいらしいよ」
様子を見ていたシンジはそう言うと、右手で自分の右の耳たぶを摘まんで見せた。
アスカは「へー」と言って、両手で耳たぶを摘まんだが、
「あんまり効果無いじゃないの。日本人はおかしなことするわねぇ」
とのたまい、代わりに木製のテーブルの端を摘まんだ。
「ティー・カップ使えばいいのに」
口を開きかけたアスカだったが、結局言い返さず、話題を変えた。
「なんかお茶請けないの?」
「えーっと、おせんべくらいしか残ってなかったんじゃなかったっけ」
シンジはそう言いながら席を立つと、シンクの上の開き戸棚の一つを開け、中を覗き込んだ。
「えー。クッキーとかないわけ?」
「だってアスカが全部食べちゃうからさ」
「何よ、自由に食べていいって言ったじゃない」
「そうだけど、食べたら無くなるに決まってるだろ」
「どうしておせんべなんて買うのよ」
「そんなこと言ったって、・・・おせんべだって食べればいいだろ? しけちゃう前に」
「今ごはん食べたばっかじゃないの」
「クッキーとどう違うんだよ」
「クッキーは小麦で作んのよ」
シンジは“歌舞伎揚げ”の袋を出してテーブルの上に置いた。
「月末までは我慢してよ」
アスカは肘で突いてそれをシンジの席の方に押しやると、湯呑みに二度目の戦いを挑み始めた。
シンジは再びテーブルに着くと、やや半身になってアスカの様子を眺めていた。
その向こう、開け放たれた引き戸の先にはリビングが、そしてその外には相変わらず鉛色の空が広がっている。
耳を澄ましても雨の音は聞こえないが、ときおり、ベランダの手すりに雨粒の跳ねるのが見える。
二人の上司の起きてくる気配もない。
アスカは、またしても湯呑みに返り討ちにされ、テーブルの下で足をパタパタさせている。
そうしてシンジの方を窺うと、シンジは、視線をリビングの方に泳がせて言った。
「あ、あの、ミサトさん、遅いね・・・」
「いつものことじゃない」
「そうだね・・・」
そう言うとシンジは、チラっとアスカを見たが、シンジを見ていたアスカと視線がぶつかった。
シンジは、えへへ、と笑って、自分の湯呑みの中を検めた。
が、別段珍しいものは見当たらない。
アスカはシンジの方に向き直った。
「なあに? ミサトがいないと寂しいわけ?」
シンジは、素早く顔を上げて、
「いや、そうじゃないんだけど・・・」
と言ったが、アスカはそれには答えず、じっとシンジを見つめている。
「あ、そうだ、あのさ、他にはいないの? アスカとおんなじ誕生日の人」
「何よ、その話まだ続いてんの?」
「え? ダメ?」
アスカは、ふっ、と笑った。
「そりゃあ何人かはいるわよ」
「へー、例えば?」
「例えばって何よ。あんたいったい何が聞きたいの?」
「いや、それは、何て言うか・・・」
シンジは、今それに気がついたとでも言うように、歌舞伎揚げの袋を手に取ると、封を開いた。
そして、「あ、お皿が無いな」と呟いて席を立つと、戸棚から深鉢を一つ出してテーブルに置き、袋の中身を空けた。
「良かったらアスカも食べなよ」
アスカは、ふう、と息をついて、「それで?」と尋ねた。
「ああ、えっとさ、じゃあ、あの、ドイツの人もいるの?」
アスカは、揚げ煎餅を一つ手に取りつつ、少し考えてから言った。
「まあね」
「誰?」
「うん。Rilke」
シンジは一瞬口篭もった。
が、アスカの目がキラっと光ったのを見過ごさず、慌てて、
「あ、ああ、聞いたことある・・・ような・・・」
と絞り出した。
アスカが口を開きかけたのを見て、さらに、
「詩人だっけ?」
と付け加えた。
アスカは満足そうに頷くと、
「あんたにしては上出来ねぇ」
と答えた。
「どんな人なの?」
「うん・・・」
しかしそれ以上は答えず、揚げ煎餅をひと欠け頬張り、お茶を啜った。
「アスカも知らないの?」
「あたしが知らないわけないでしょーが」
憤然と顔を上げてアスカが言った。
「まあ、ドイツの詩人としては、Goethe, Schiller, Hesse, Brecht, Heineなんかの方が有名だし、
あんたが良く知らなくったってムリはないわ」
「詳しいね・・・」
「あたしドイツの学校出てんだけど?
あんただって日本の詩人の名前を挙げろって言われたらいくらでも出てくるでしょ?
芭蕉とかさ」
「あ、俳句も詩なのか」
「あったり前じゃない」
アスカはお茶を啜った。
もうそれほど熱くはないらしく、湯呑みの上の方を片手で摘まんで、もう一方の手には揚げ煎餅を持っている。
その様子を見ていたシンジだったが、やがて尋ねた。
「それで、どんな人だったの?」
「何よあんた、詩に興味あんの?」
「いや、別にそうじゃないんだけど、なんとなく・・・」
アスカは、ふうん、と言ってから、「ま、いっか」と呟いた。
「そうね、ちょっとあんたに似てるわよ」
「え? ぼく?」
「うん。Rilkeのお母さんは、Rilkeを女の子として育てたんだって」
「えぇ?! ぼく、そういう過去はないよ」
「いいから人の話は最後まで良く聞きなさい。
それで、Rilkeのお父さんってのは、元職業軍人だったのよ。
Rilkeにも軍人になって欲しくて、Militärrealschuleに入れたわけ。
分かる? Militärrealschule」
「えっと・・・」
「つまり、軍人になる子供を行かせる学校ね」
「へー。厳しそうだね」
「ドイツのMilitärrealschuleよ? この星でいちばん厳しいわよ」
「そうなんだ」
「まだ19世紀のことだし、手加減無しよ、たぶん。どう? 少しは親近感湧いた?」
「あ、なるほど、そういうことか」
「ま、Rilkeに比べたらあんたなんてまだまだよ」
口をとんがらせたシンジには構わず、アスカは続ける。
「それまで女の子扱いされてた子が10歳でそんなとこに放り込まれて、無事にやってけるわけないでしょ?
それで詩を書き始めたらしいのよね。
その後士官学校に進むんだけど、体が弱いとか何とか言って辞めちゃったの」
「へー。お父さん、怒らなかったの?」
「怒るっていうか、ずいぶんがっかりしたみたい」
「やっぱり・・・」
「おかげでRilkeは、軍隊的なものが大嫌いになっちゃったらしいのよ。
第一次世界大戦で召集されるんだけど、その頃にはRilkeもちょっと有名になってて、
いろんな人が陸軍に働きかけて、前線に行かなくていいようにしてくれたり、早期除隊できるようにしてくれたり、
助けてくれたのよね。
それでもずいぶん精神的に参ったみたい」
「なんか、分かるかも・・・」
「分かってどうすんのよ。要するに、こいつはあんたの同類。まったく男のクセにだらしないったら、」
「止めてよ、そういう言い方」
「何でよ。事実じゃないの」
「・・・アスカには分かんないよ」
「何がよ」
「だって、アスカは、やりたいことをやってるんだろ。やりたくないのにやらされてるわけじゃないだろ」
「そうよ。でもそれはあたしがロボットの操縦が趣味だからじゃなくて、この仕事が重要だからよ。
誰にでもできるわけじゃないことだから、あたしはやりたいの。あんたにはそういう気持ちがないじゃないの。
それが意気地無しだって言ってんのよ」
「だって、やりたくないんだからしょうがないだろ。それをやれって言う方が悪いんじゃないか」
「そんなにイヤならやんなきゃいいじゃないの。なんでまだエヴァに乗ってんのよ」
「だって、・・・頼まれたから」
「司令に?」
「・・・みんなに」
「あたしは頼んでないわよ」
「分かってる」
「・・・あんた、キライなの? 碇司令」
シンジが、珍しくアスカを睨んだ。
アスカは少し驚いたようだったが、「何よ」と言って睨み返した。
やがてシンジは下を向いて話し始めた。
「別に、嫌いじゃないよ。誰だってさ、嫌いなわけないだろ、自分の父さんなのに。
リルケだってきっとそうだよ。
本当はイヤだったけど、でも、父さんの言いつけだから、我慢して軍人の学校に行ってたんだよ、たぶん。
それでも、我慢しても、もうどうしようもなくなって辞めたんだよ。
それは、学校はもちろんイヤだっただろうけどさ、父さんに嫌われるのはもっとイヤだったはずだよ。
だから・・・。
『父さんは間違ってる』って、そんな簡単には言えないんだよ。そう思ってたとしても」
そう言ってシンジがアスカの方を窺った。
アスカは「ふうん」と言って目を逸らし、言った。
「ま、確かにあんたは向いてないわね、性格的に。なんでシンクロできんのかしら」
「それはこっちが聞きたいよ」
シンジはそう呟いた。
アスカは何も言わず、左手に持っていた揚げ煎餅の最後のひと欠けを口に入れ、もぐもぐと咀嚼し、お茶を啜った。
「・・・父さん、何かしたのかな・・・」
「何それ。どういう意味?」
「あ、いや・・・」
「あのねぇ、あんたを無理矢理シンクロできるようにする方法があんだったら、それを別の人にやるわよ、
NERVは」
「そうだよね・・・」
「そりゃまあ、Rilkeのお父さんだって碇司令だって人の親だから、
息子に立派になって欲しい気持ちはあるだろうけど、」
「リルケは立派になったじゃないか。ぼくでも名前を知ってるような詩人になったんだからさ」
「それはどうかしらね・・・。
まあ、そうだとしても、あんたはRilkeじゃないんだから、あんたが威張ることじゃないでしょ?
そういうことは自分が立派になってから言いなさいよ」
「それはそうだけど・・・。でも、『どうかしらね』って、どういう意味?」
「え?」
「そう言わなかった?」
アスカはそれには答えず、深鉢から二つ目の揚げ煎餅を取り、その端をパキっと折り取って、口に入れた。
「もしかして、あんまり好きじゃないの? リルケ」
「んー、そうね」
「そうなんだ。・・・なんで?」
アスカは、未だシンジの向かいの席に置かれたままの、ラップのかかったレタス・チャーハンの皿に目をやった。
そして、それを見つめたまま、答えた。
「要するに、だらしないのよ。人生全般において」
アスカは一旦言葉を切ったが、レタス・チャーハンからシンジの方に向き直ると、続けた。
「若い頃のRilkeには、有名な恋人がいて、Lou Saloméって言うんだけど、Rilkeより10歳以上も年上なのよ」
「へー・・・」
「言ってみりゃ、あんたがミサトを恋人にするようなもんね」
シンジは、笑ったような困ったような顔をした。
「そういう趣味はヒトそれぞれじゃないの?」
「そりゃそうだけど、Saloméにプロポーズしたとき、彼女もう結婚してたのよ?」
「そうなの?」
「まあ、Saloméの場合はSaloméの方にも問題あったかもしれないんだけど、Rilkeはそれだけじゃないのよ。
結局Saloméにはフられて、その次の年にはClaraっていう彫刻家の女性とデキ婚すんのよね。
ところがRilkeは家のことも子供のことも全部Claraに任せっきりで自分は何にもしないで、
結局一家離散しちゃうわけ。
・・・あ、ここはちょっと、あんたと違うとこね」
「ぼくも別に家事が好きなわけじゃ、」
「ほんと? ま、それはどうでもいいわ。
・・・それでもRilkeは離婚はしないのよ。
Berlinの家にClaraと娘を置いたまま、自分はParisやSchweizに住んでそこで仕事するわけ。
その間にも他の女性と同棲したり、プロポーズしてフられたり」
「ひどいね」
「でしょ?」
「でも、アスカがリルケを嫌いな理由って、それなの?」
「そうよ」
「リルケがあんまり尊敬できない人だったとしても、それとリルケの作品とは関係ないんじゃ」
「Rilkeの作品がキライだなんて言ってないじゃないの」
「でも、それだったら尚更、アスカはリルケとは関係ないんだし・・・」
アスカは何も言わず、またもやレタス・チャーハンに視線を戻し、それから自分の湯呑みを見つめ、呟いた。
「そうね。あたしはRilkeみたいな人とは金輪際関係ない」
二人とも少し黙っていた。
やがてアスカは、思い出したように揚げ煎餅を齧った。
「もう一杯お茶淹れよっか」
「うん。・・・ありがと」
シンジは、戸棚から新しい湯呑みを出し、一杯目と同じようにお茶の準備を始めた。
「でも、ぼく、確かに名前は知ってたけど、どんな詩を書いたのか全然知らないや」
シンジが、テーブルに背を向けたままで言った。
アスカは、湯呑みに残ったお茶を飲み干し、それから答えた。
「ま、そうよね。あたしも詳しくないし」
「そうなんだ」
「Dinggedichtを始めた人らしいけど」
「え? 何?」
「うーん・・・」
アスカが考え込んでいる間に、シンジは、湯呑みのお湯を急須に移した。
「Eposって分かる?」
「いや・・・」
「そうよねぇ。うーん・・・。じゃあ、よし、分かった。
つまり、詩には、何についての詩か、っていう基準で見た分類があんのよ。
Eposってのは、昔あった出来事を語るための詩のことね。
英雄伝説とかが多いんだけど」
「ああ、なるほど」
「それに対して、自分の感情を語る詩をLyrikって言うのよ。恋愛の詩とかはこれね」
「うん」
「Dinggedichtっていうのは、そのどっちでもないのよね。何か具体的な物事を語るための詩なの」
「へー・・・」
そう答えながらシンジは、急須の中の様子を確かめ、湯呑みに少しお茶を注いで色を確かめた。
「そう言っても分かんないか。例えば、そう、花とか」
「花?」
「うん。RilkeはRodinの研究をやってたことがあるの。Rodinは分かる?」
「ロダンって、彫刻家のロダン?」
「そ」
「うん、名前は知ってるけど・・・」
「今でも有名だけど、Rodinは当時から有名だったのよね。
RilkeはRodinの秘書をやりながらRodinの仕事を良く見てたの。
例えば、花を彫刻するときは、花を良く観察して、花に見えるように石を彫っていくわよね」
「うん」
湯呑みにお茶を注ぎ終わったシンジが、お盆をテーブルに運ぶ。
「でも、それは花じゃないじゃない。石で花を表現しただけでしょ?」
「うん。でも花に見えるよ」
そう言いながら、菖蒲の絵の描かれた湯呑みをアスカの前に置き、空の湯呑みをシンクに片付けた。
「そう、それなのよ。花の詩は花じゃないじゃない。言葉で花を表現しただけでしょ?
でも、その詩から具体的に花を感じ取れたら芸術的だと思わない? 彫刻みたいに」
「ああ、なるほど」
「『花』っていう単語自体は、花を表す記号に過ぎないのよ。花を表現してないわけ。
でも、棘のある茎の先に、たくさんの花びらが折り重なるようについている様子を書けば、
それはバラの花だな、って誰でも分かるし、頭に思い浮かべることができるでしょ?」
「すごいね! 詩人だね」
「何言ってんの。・・とにかく、ものごとの本質を言葉を駆使して表現していくのがDinggedichtなの」
「分かった。リルケは、それを始めた人なんだ」
「だからそう言ってんじゃないの」
「それってすごいんでしょ?」
「・・・まあね」
自分の椅子の背に手を掛けたまま、シンジは勢い込んで話し始めた。
「やっぱりさ、人にはそれぞれ、向き不向きがあるんだよ。
リルケは軍人には向いてなかったかもしれないけど、詩の才能はあったんだよ」
「だから?」
そう言われて、シンジは黙ってしまった。
「・・・いや、まあ・・・」
思い出したように、椅子に座る。
「あんたも、何かやりたいことがあんならやったら? 詩でも書いてみる?」
「詩はちょっと・・・」
アスカは、新しい湯呑みの縁に軽く触れたが、慌てて手を引っ込め、戦いは先延ばしされた。
「知ってる? バラには『沈黙』って意味があんのよ」
「え? なんで?」
「理由はあたしも良く知らないけど。
『バラの下で話しましょう』っていうのは、『秘密にしておきましょう』っていう意味なんだって」
「へー・・・」
「壁にバラの絵が描いてある部屋では、中で話したことは口外無用ってことらしいわよ」
「知らなかった・・・。でも、なんでなのかな・・・」
「だから知らないって」
「あ、いや、そうじゃなくてさ。秘密にしたければ、秘密です、って言えばいいだろ?
なんでわざわざバラなんだろ?」
「昔はそういうのが流行ったらしいわよ? Symbolismusって言うんだけど」
「ふうん・・・」
「Rilkeも一応その一派ってことになってるわね」
「そうなんだ」
「うん。Rilkeの詩はそれなりに難解だそうだし、バラと沈黙のモチーフも良く使われてたみたいよ。
そういうテクニックも使いながら表現していくスタイルだったのね」
「ふうん・・・」
そういってシンジは揚げ煎餅に手を伸ばしたが、左手にそれを持ったまま、食べるわけでもなく考え込んでいる。
「Dinggedichtは、さっきの標題音楽ってのとも共通点があんじゃないの?
何かテーマがあって、それを伝えるために、片や言葉を使って、片や音楽を使うわけでしょ」
アスカがそう問い掛けると、シンジは顔を上げた。
「あ、そういうことなのか・・・」
「たぶんね。
彫刻家が花を彫るのだって、花を彫るのが上手いって褒めてもらいたいからじゃないでしょ?
何かそこには別の意味があるわけ。
本当に伝えたいのは、表面的なことじゃないのよ。
裏に篭められた想いとか意味とか、それを感じ取ってもらうために表現手段を工夫してんでしょ」
「でも、わざわざ分かり難く伝える必要ないんじゃ、」
「分かってないわねぇ。わざと伝わり難くしてるんじゃなくて、そうしないと伝わらないことを伝えたいの」
「・・・理解できない方が悪いってこと?」
「別に悪くはないわよ。ただ、それで理解できない人にはどうやって伝えようが理解できないってこと」
「なるほど・・・」
シンジは、そう言ったきり、顔を伏せ、考えに沈んだ。
アスカは、まだ湯気の立っている湯呑みを扱い兼ねている。
揚げ煎餅をひと欠け割り取って、そうっとお茶に浸すと、ふうふうと吹いて冷ましてから口に入れた。
ひとしきりそんなことをしてから、シンジの方をチラッと見るが、相変わらず下を向いて何も言わない。
アスカは、ふう、と溜息をついて、話し始めた。
「Rilkeについては、ちょっと面白い話があんのよ」
はっ、と顔を上げたシンジは、自分に向けられたアスカの顔を少しの間見つめ、それから答えた。
「へー・・・。どんな?」
「うん。でも、言っとくけど、これはホントかどうかは知らないわよ」
そう前置きして、アスカは話し始めた。
「Rilkeの死因なんだけど、お客様のおもてなしの準備のために庭のバラを摘んでたら手に棘が刺さって、
その傷が元で死んだっていう噂が流れたのよね」
「ええ?! バラって、毒あるんだっけ?」
「バカなこと言ってんじゃないわよ。毒は無くても、ばい菌が入ったりすることはあんでしょ?」
「ああ、なるほど。じゃあ、リルケって、バラで死んだの?」
「ところが事実は違うのよ。Rilkeの本当の死因はLeukämieで、バラの話はでたらめ」
「え? ロイケミー・・・?」
「えーっと、ほら、なんだっけ、あれあれ。・・・白血? 白血病?」
「あー」
「最後の詩集を書いた頃から具合が悪くなって、暫く入院してて、結局死んだのよね」
「そうなんだ・・・」
「ちなみにそのお客様ってのは、当時有名だった美人だったんだって。
如何にもRilkeならありそうな話って感じしない? だからみんなコロっと騙されたのね」
「なるほど・・・」
「それで、その噂を流したのは、Rilke本人なんじゃないかっていう説があんのよ」
「ふうん。でも、なんでそんなことするんだろ?」
「だから、バラは沈黙の象徴でしょ?
つまり、Rilkeは自分の本当の死因を隠したかったんじゃないか、ってこと」
「あー・・・」
「本当かどうかも分からないから何とも言えないけど、
白血病は詩人の死に方としてはあんまりかっこよくないとか思ったんじゃないの?
さっきあんたもビックリしてたけど、バラの棘で死にました、なんて如何にもじゃない?」
「うん、そうだね」
「で、ただ秘密にしてくれったって、そりゃ友達はそうしてくれるかもしれないけど、
世の中にはそれを調べようとする人たちだっているでしょ?
そういう人には何言っても無駄なのよ。
彼らは決してRilkeの希望を理解しようとはしないわけ。
だから、意味の分かる人には本当の意味が分かって、
意味の分かんない人にも表面的には意味の通る方法で自分の希望を表現した、
そういうことなんじゃないかって」
「なるほど! へー・・・、あ、つまり、そういうことなの? その、リルケの詩が分かり難いって」
「そういうこと」
「じゃあ、つまり、・・・ぼくがそれを読んでも意味が分からないなら、
それはぼくのために書かれた詩じゃないってことなのか・・・」
「そうかもね」
「そっか・・・。でも、でもさ、今みたいに、説明してもらえれば分かるってことだってあるだろ?」
「今の話に表も裏もないじゃないの。そりゃ説明すりゃ分かるわよ」
「あ、そっか」
「ま、単に説明するのがかっこ悪いと思ってるだけなのか、
それとも、読んだ人が、詩の内容だけじゃなくて、そういう表現方法に面白さを感じられるようにしたいのか、
それとも、何かもっと別の意図があるのか、それは分からないし、詩によっても違うかもしれないし」
「ああ、なるほど・・・」
シンジが再び顔を伏せかけたとき、アスカが言った。
「いろいろ勉強したり、人生経験積めば、だんだん分かるようになることもあんじゃないの?」
シンジは口をとんがらせたが、少し考えてから答えた。
「うん、そうだね・・・。分かった。ありがとう」
シンジは、神妙な面持ちで礼を言った。アスカは、軽く、うんうん、と頷いて、湯呑みに手を伸ばした。
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