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誓い
8月20日 (土)

手早く朝食を済ませて、7:00に出勤した。
今日はシンジも一緒だった。
シンジは、わたしの居室となっている第3処置室を懐かしそうに見回していた。
ここで歩行練習をしていたのが、つい昨日のことのようだ。

わたしはさっさと仕事を始めた。
シンジが隣にいることを意識すると、いつもより気合いが入った。
つまり、かっこいいところを見せたかった。
子供だなぁ、と自分で思いつつも、そんな自分が、案外、イヤではなかった。

シンジは、脇机で、自分のノートを無線LANにつないでいた。
ネット・サーフィンを始めたらしく、
マウスをカチカチさせる音が聞こえてきた。
わたしは、どんなものを見ているのか少し気になったので、
コーヒーを淹れるついでに、後ろから覗き込んだ。
「あんたさっきから何やってんの?」
シンジは、かなり驚いたらしい。
あたふたと画面を隠して、こうのたまった。
「ふ、夫婦にもプライバシーは、」
かなり慌てている。
「エロ画像ね?」
「ち、違うよ!」
「あっきれたわねー。何もここで見なくったっていいじゃない」
「違うったら!」
真剣な顔である。
「じゃあ、何よ」
「・・・これ」
シンジは、渋々画面を見せてくれた。
介護専門学校の通信講座の案内だった。
わたしは、一瞬でその意味を悟った。
シンジは、言葉通り、自分の力でわたしを取り戻そうとしている。
「ごめん・・・」
「あ、いいよ、そんな・・・」

それからは、お互い、無言のまま、自分の作業に没頭した。
暫くすると、シンジが、
「ここがいいと思うんだけど・・・」
と聞いてきた。
その学校は、一年間の通信カリキュラムをこなすと、
居宅介護の資格が得られるらしい。
完全に通信講座だけなのではなく、実技の勉強のために、
週に一度、第2新東京に通わないといけないようだ。
それなのに入学随時だというから、
カリキュラムも工夫されているのだろう。
主に、在宅で家族の介護をする人のための講座らしい。
定員数は少ないものの、実績もあるようで、
怪しげなものではなさそうに思えた。
「いいんじゃないの? でも、勉強、厳しそうねぇ」
「頑張るよ」
「高校はどうするの?」
「それも通信で・・・」
「なるほどね。ま、あんたがそう決めたんなら、頑張ってみれば?」
「うん」
「中学校もちゃんと卒業すんのよ」
「分かってるよ」
そっちは、鈴原もついているし、大丈夫だろう。

昼前にマヤがやってきたので、3人でお昼ごはんを食べた。
マヤは、シンジの作るおべんとには以前から興味があったらしい。
楽しいお昼ご飯になった。

マヤが聞いてきた。
「ねえ、アスカ、結婚の話なんだけど、」
「うん。なに?」
わたしは、その話題は少し恥ずかしかったが、平静を装って答えた。
「ドイツのご両親は呼ぶの?」
「ダメよ、あたし、“アスカ”じゃないもの。ややこしくなっちゃうわよ」
「そう・・・、でも、じゃあ、披露宴とかは?」
「やらない」
「そう・・・」
「シンジとも話し合ったんだけど、あたしたち、二人だけで、
ミサトや、天国のママや、シンジの御両親に報告するだけでいいの。
いわゆる結婚とは、ちょっと、違うのよ」
「そう・・・。あたしも呼んでくれないの?」
わたしは、返答に詰まった。
確かに、マヤも呼ばないのは悪いかもしれない。
でも、わたし達のことは誰にも邪魔されたくなかった。
困っていると、シンジが助けてくれた。
「ごめんなさい。ぼくたち、二人だけにさせて欲しいんです」
「そう・・・、分かったわ。でも、それじゃあ秘密にしておいた方がいいわね。
行きたいって言う人、多いと思うから」
「分かりました」

「それじゃ、結婚祝い、あげるわね」
「え? なになに?」
「アスカ! マヤさん、そんな、悪いですよ、式にもお招きできないのに、」
「あ、大したものじゃないのよ。ちょっと、ブラウザひとつ借りていい?」
「いいわよ」
マヤは、ブラウザを操作すると、一枚のモノクロームの写真を表示した。
「あ~~~、何これ~~~! ちょっと! マヤ!」
「えへへ、いいでしょ」
「マヤさん、趣味悪いですよ・・・」
「あら、ごめんなさい。
でも、いつかこういう日が来たら見せてあげようかな、って思って、
これ一枚だけ、保存しておいたの」
その写真には、研究棟の屋上で寄り添っているわたしとシンジが写っていた。
「これ、いつのですか?」
「えーと、7月3日かな? 洞木さんたちがお見舞いに来てくれた日よ」
「これ、監視カメラよね?」
「そうね」
「ずっと見てたわけ?」
「うん。
二人の間に、万一のことがあったら、あたしがすぐに行ってあげないと
いけないって思ってたから、注意して見てたのよね・・・。ごめんなさい」
「ぼくが、アスカに赦してもらったときだよね、これ」
「うん、そうね・・・。ね、マヤ、これもらっていい?」
「ええ、どうぞ。わたしのファイルからは削除するから」
この写真は、経過日誌の該当のページに貼り付けた。

午後からは、マヤがシンジとバトンタッチして、
シンジは、引っ越しと結婚の手配を進めるために、家に戻った。

午後、一度だけ、人格の交替があったらしい。
よく覚えていないが、少し抵抗したような記憶がある。
椅子から立ち上がって、ベッドの方へ向かい、
そのままズルズルと床に崩れた、と、マヤが言っていた。
マヤがドアを開けて飛び込んで来たときには、
既にわたしは意識を取り戻し、仕事を再開していた。
念のため、意識レベルとバイタルをチェックしてもらったが、
異常はないようだった。
今回はごく短時間で済んだ。

今日は、トラブルと言えばそれだけで、他は何故かとても調子が良く、
仕事も捗った。
昨日の遅れは取り戻せたと思う。
これなら、明日はシンジとゆっくり過ごせる。

晩ご飯のあと、シンジから、引っ越しの準備について相談を受けた。
何を持っていって何を捨てていくか。
相変わらず細かいことを色々と気にしている。
元々要人隠匿用の施設なので、家具はすべて向こうに備え付けられている。
だから、そんなに考えなくてはならないことが多いわけではないのだ。
そう、シンジの写真と、シンジにもらったものさえあれば、
その他は適当でいい。
それでも、わたしはシンジにつき合ってあげる。
シンジがいろいろ悩むのは、すべてわたしのためなのだから。

8月21日 (日)

午前中は、ウェディング・ドレスを手配するため、
以前に見かけた貸し衣装屋さんに行った。
お金はあるのだから新品を買ってもいいのだが、
もともとこれは“アスカ”のお金なので、あまり高い買いものはできない。
貸し衣装屋さんのショウ・ウィンドウの中に、
雪のように白いドレスが飾ってあった。
確かに、以前に見掛けて溜息をついたのと同じものだった。
シンプルだが、洗練されたデザイン。
わたしは、それを見ているだけで、何だかどきどきした。
眼鏡を掛け、白髪頭がだいぶ薄くなっている、その店のご主人は、
わたしの半分嘘の説明を笑顔で聞いてくれ、
わたしにそのドレスを貸すことを承知してくれた。
サイズを合わせる必要があるが、五日間でできるとのことだった。

午後は、シンジと、わたしの家でごろごろした。
わたし達は、これまでにもいろんなことを良く話したと思うが、それでも、
お互いのプライベートなことは、あまり話さなかった。
やはり、遠慮があったのだろうか。
でも、今日は、そういうことを良く話した。

シンジが、ご両親の話を聞かせてくれた。
シンジは、小さいときにお母さんと死別した。
シンジのお母さんがゲヒルンの研究者で、
エヴァの製造にも大きく貢献した人物だったことや、
実験中の事故で亡くなったことなどは、ドイツで聞いて知っていた。
優しいお母さんだったそうだが、ほとんど覚えていないらしい。
そう考えてみると、わたしのママもそうだった。
わたし達には共通点が多い。
シンジのお父さんは、見た通りの人物だったらしい。
シンジはかなり苦手、というよりも、むしろ憎んでいるようだ。
シンジの口からは、お父さんの悪口しか出てこない。
お母さんのお墓を「もっとちゃんとしたところ」に作らなかったこと。
小さいときに捨てておいて、必要になったからといって突然呼び出して、
自分の都合でシンジを利用したこと。
お母さんのクローンを作ったこと。
それをシンジに秘密にしていたこと。
確かに、シンジは少し甘えているところがあるが、
それでもこれでは文句も言いたくなるだろう。
わたしは同情した。
「今でも憎んでるの?」
「うん」
「でも、あたしとの結婚は、お父さんにも報告するんでしょ?」
「うん、それは、やっぱり父さんだから・・・」
やっぱり父さん、か。

シンジは、話し終えると、わたしのママのことを聞いてきた。
「アスカのお母さんは?」
「え?」
「どんなひとだったの?」
「うーん、あたしもちっちゃかったから、よくは覚えてないんだけどね・・・。
あんたと同じよ。
とっても優しかったっていう記憶しかないわねぇ。
ケーキを作ってくれたり、公園に連れてってくれたり、
それから、よくお話をしてくれたわ。グリム童話とか」
「白雪姫ってグリム童話だっけ?」
「正解。あんたにしては上出来ねぇ。
ドイツ語のタイトルは“Das Schneewittchen”っていうんだけどね。
ママに話してもらった覚えがあるわ・・・。
魔女に化けた王妃に騙されて毒リンゴを食べさせられて眠っちゃったお姫様が、
王子様のキスで目が覚めるのよね」
「うん」
「そういえば、あたしのときは王子様のキスじゃなかったわよね」
「え? あっ、」
「あはは、いいわよ。
でも、女の子って、ああいうシチュエーションには一度は憧れるのよね。
あんたもそのうち“アスカ”にやってあげたら? きっと喜ぶわよ」
「いきなりそんなことしたら殺されるよ」
「あはは、分かんないわよ、そんなの。
でも、きっと“アスカ”もあんたのこと好きよ。
あたし、分かるもん」
「そうだったらいいな・・・」
「そうね」
そうしてみせる。

シンジは、“アスカ”とのキスの思い出を話してくれた。
「キスっていえばさ、」
「なあに?」
「まだ、ミサトさんのマンションにいたとき、
一回だけキスしたことあったよね」
「あのときは“アスカ”だったけどね」
「うん・・・。あれ、どうしてだったの?」
「あれね・・・。うん・・・。なんか、今でも、良く分かんないのよね・・・」
「そうなんだ」
「確認かな、自分の気持ちの」
「ふうん・・・」
「うまく話せないんだけど・・・
あんたのこと、そんなにキライじゃない、っていうか、
けっこう意識してたのよ、あの頃。
でも、ほら、“アスカ”は加持さんだったでしょ?」
「うん」
「加持さんが好きなはずなのに、
なんであんたなんかにこんな感じになるんだろう、っていうのはあったわね。
だって、冷静に較べたら、全然比較にならないもの。
それで、分かんなくなっちゃって・・・。
加持さんは大好きだったのよ。
でも、加持さんのお嫁さんになって幸せな家庭を持ちたいなんて考えたことは
なかったのよね。
そういうんじゃなくて、今、愛して欲しいっていうか・・・」
「そうなんだ・・・」
「うん・・・。
あんたのこと、好きなのかどうかも良く分かってなくてさ。
でも、キスしてみて、やっぱりあんたじゃなくて
加持さんが好きなんだって思ったかな」
「すぐうがいしちゃったもんね」
「うん・・・。ごめんね」
「いいよ。もう昔のことだし」
アスカ、良く聞いておきなさい。
「でも、今思い返してみると、加持さんへの気持って、
本当の愛情じゃなかったっていう気がするのよね。
ただの憧れみたいなものだったのよ。
それより、あんたに感じた、なんていうか、
もどかしいっていうか、せつないっていうか、
そっちの気持ちの方こそ、本当の恋だったのよね。
あるいは、恋の始まり、みたいなもの。
あんたに恋してる今は、それが分かる」
「ぼく、あのときどうしたら良かったのかな」
「うん、別に・・・。
問題があったのは“アスカ”の方だから、
どうしたって大差なかったと思う。
まあ、でも、『ぷはぁ』はやんない方が良かったわね」
わたしたちは笑った。

「あんたはどうだったのよ」
「え?」
「一応、ファースト・キスだったわけでしょ? なんか感想ないの?」
「うん・・・」
「言いなさいよ」
「あのさ、あのキスを境に、なんか、アスカ、変わったよね」
「え? そう?」
「そうだよ。
それまでもさ、よくぼくのことバカにしてたけど、
でも、それはなんていうか、悪意がない感じだったんだけど、
あの頃から急に、ことあるごとに突っかかってきてさ・・・。
いつだって、何をやったって、必ず何か言われるんだもん。
アスカのこと苦手になっちゃってさ・・・。
ああいうのやめて欲しかったんだけど、
なんでそんなふうになっちゃったのか良く分かんなくてさ・・・。
やっぱり、あのキスが、良くなかったのかなって思ってた。
ぼくが、アスカの気持ちにうまく応えられなくて、
それで、アスカに嫌われちゃったんじゃないか、って」
「そうじゃないわよ。あんたのことキライだったのは、また別の理由」
「そうなんだ」
「うん。ま、やつあたりだったんだけどね。
あたしよりエヴァの操縦がうまいなんて癪に触ったってだけ」
「アスカの方がうまかったと思うけど」
シンクロ率が低下するのに従って、“アスカ”はシンジを憎んでいった。
シンジが悪いわけでもないのに。
“アスカ”は、良く思い出してみるべきだ。
それまでシンジのことをどう思っていたのか。
それから後も、“アスカ”が壊れるまでの間、
シンジは“アスカ”に何も悪いことはしていない。
“アスカ”が、自分自身の問題を、シンジの問題にすりかえて、
やつあたりしていただけだ。
いちばん当たりやすい人に当たっていただけだ。
いちばん甘えやすい人に、甘えていただけだ。

「ところでさ、あたしがまだ入院してたとき、
加持さんが死んだって教えてくれたじゃない?」
「うん」
「あれって、どうしてだったの?」
「え? うん、アスカがいちばん知りたいことだろうと思ったから」
予想外の答だった。
「そっか・・・。
あのね、あたし、あんたが嫉妬してたんだと思ってた」
「え? 違うよ、ぼくと加持さんじゃ比較にならないって、
さっき自分で言ったじゃないか」
「そうよね・・・」
「意外と、はっきり言うんだね」
シンジは、笑いながら言った。
「あ、ごめん、そうじゃなくて、
あんたってそういうやつだったっけ、って思ってさ。
あ、ごめんね、シンジ、ほんとにごめん・・・。ごめんなさい」
シンジは、恐縮しているわたしを見て、笑っていた。
たぶん、わたしはシンジに謝らなければならないことが
たくさんあるに違いない。
わたしが気がついていない、たくさんのことが。

「綾波、帰って来られるかなぁ」
「あったり前じゃない。誰がやってると思ってるのよ」
「あ、ごめん・・・」
「帰って来たら、何て言ってあげるの?」
「うん・・・、お帰り、って」
「あはは、あんたらしいわね」
「母さんのクローンだって分かってから、ずっと避けてたから・・・。
でも、今度はちゃんと逃げないで言うよ」
「そうね。
3人でどっかに遊びに行こっか?」
「うん、いいね。どこがいいかな」
「ファーストも自由に出歩けるようになるまでは暫くかかるだろうし、
やっぱ近場よね。長野じゃない?」
「そうだね。映画館とかどうかな」
「ばかねぇ。映画だったら、うちで見ればいいじゃない」
「そっか。じゃあ、」
「どこ?」
「・・・ごめん、思いつかないや」
「・・・そうよね、あたし、いつ交替するか分かんないし」
「あ、アスカのせいじゃないよ」
「分かってる」
そしてもちろん、シンジのせいでもない。
「あたしがいなくなってもさ、あんた、ファーストと仲良くしてあげなさいよ」
「うん」
「数少ない友達なんだからさ」
「うん」
わたしがいなくなった後、シンジは、わたしの想いを取り戻してくれる。
でも、それはつらい日々になるだろう。
そのときシンジには友達が必要だと思う。
ファーストは、きっと、その役に立ってくれるだろう。

「ぼくたちさ、」
「なに?」
「結婚したら、何しようか?」
「・・・やらしいわねぇ・・・」
「ち、違うよ! 何言って、」
「あはは、冗談よ、」
「アスカ! 真面目な話!」
「はいはい。なあに?」
「ほら、アスカ、仕事なくなるだろ?
だから一日中一緒にいられるじゃないか。
せっかくだからさ、何かやろうよ」
「何かって何よ」
「うん、それが分かんないんだけど・・・」
「はっきりしないわねぇ」
「ごめん・・・」
「まあ、でも、言いたいことは分かるわよ。
そうね・・・、あんたに勉強教えてあげよっか?」
「そんなんじゃなくてさ、」
「何言ってんのよ。勉強は大事よ。
あたしがあんたに残してあげられるもので、たぶんいちばん役に立つわよ」
「いらないよ、役に立つものなんか」
「そ。
ま、いいわ。あんたがやりたいことなら何でもつきあってあげるわよ」
「そうじゃなくて、
アスカが充実してられるようなことが何かないかなって思って・・・」
「なるほどね」
「何かないかな?」
「じゃあさ、お料理教えてよ」
「え? 料理?」
「うん」
「そんなのでいいの?」
「うん。あんたに美味しいお料理作ってあげたいからさ」
「分かった・・・」
「なに泣いてんのよ。バカじゃないの?」
「うん・・・」

とりとめのない話は続く。
「アスカはさ、」
「なに?」
「ぼくがお見舞いに行ってたときの記憶ってあるの?」
「あるわよ」
「その、・・・目を覚ます前のことだけど」
「ああ、あたしが作られる前の記憶ってこと?」
シンジは、ちょっと嫌な顔をした。
わたしの言い方に少し刺があったかもしれない。
「うん、だいたい覚えてるわよ」
シンジは黙ってわたしの言葉を待っていた。
「あんた、毎日来てたわよね。それで、いろいろ昔のこと話してたでしょ?」
「やっぱり、分かってたんだ」
「うん。でも、それは、なんて言うか・・・、
あたしはもう死んじゃってるのに、
あんたがあたしの死体に向かって話し掛けてるような、
そんな感じだったのよね」
「そうなんだ・・・」
「うん」
「あのさ、どんなふうに話し掛けたら良かったのかな?」
「あ、なるほど。そういうことか。
うーん、難しいわねぇ・・・。
どうやってもダメだったような気もするけど・・・」
「うーん・・・」
「キスしてみたら?」
「ダメだよ、そんなの」
「死体にキスするなんて、よほどの物好きだから、
“アスカ”にも、自分はまだ死んでないって分かると思うわよ」
「でも、抵抗できないときにキスするなんて、良くないよ」
「何をいまさら・・・。キスくらいで気にすることないって。
構わないからやっちゃいなさいよ。ちゅっ、って。あたしが許可するわ」
「他の方法ってないのかなぁ・・・」
「・・・思いつかないけど」
「もっと、昔のことをちゃんと謝ったらどうかな?」
「うーん・・・。まあ、やってみたら?」
「じゃあ、アスカのいいとこを誉めまくるとか」
「あ、そっちの方がいいかもね」
「うーん・・・」
「ま、いろいろやってみれば?」
「うん」

その後、シンジが手洗いに立ったところまでは覚えているが、
次に意識を取り戻したのはベッドの上だった。
今度はシンジは慌てなかったらしい。
記録によれば、落ち着いてマヤに連絡を入れ、指示通りに、
意識レベルとバイタルをチェックし、ベッドまで運んでくれたようだ。
シンジは、その後、“アスカ”との久しぶりの対面を楽しんだらしい。
「アスカ、久しぶりだよね・・・。
この前会ったときは、ぼく、ちょっと慌てちゃってて、ごめんよ。
あのさ、アスカに話したいこと、いっぱいあるんだ。
アスカも、もう一人のアスカのこと、知ってるんだって?
ぼくさ、そのアスカとずっと一緒に暮らしてて、
アスカのこと、好きになっちゃったんだよね。
今度、結婚するんだよ。
アスカが眠ってる間に勝手に決めちゃって悪かったけど・・・。
でも、もう一人のアスカだって、アスカなんだから、
アスカとだって、そうなる可能性はあったはずだよね?
そう思うことにしたんだ。
・・・ごめんね。
でさ、もう一人のアスカが、
アスカは前からぼくのことが好きだったって言ってたんだけど・・・。
それって、ほんと?
・・・あのさ、もう一人のアスカと一緒に暮らしてて、
ぼく、いろいろ気がついたことあったんだけど・・・」
DVRを再生しながら、わたしは心が安らいでいくのを感じている。
わたしがいなくなっても、これなら大丈夫。
シンジはきっとわたしの想いを取り戻してくれるだろう。

“アスカ”はシンジを見つめていたのだろうか。
わたしがゆっくりと意識を取り戻したとき、視線の先にはシンジがいた。
シンジは、わたしの左手を握って、まだ“アスカ”に話し掛けていた。
「・・・でもさ、やっぱり、ソフトボールとはだいぶ違うみたいで、
ほとんどカスりもしないんだよね。
それでも、腰が全然引けてないのはさすがだったなぁ・・・」
わたしの話題らしい。
少し居心地が悪かった。
「ぼくは、最初にバッティング・センターに行ったとき、
怖かったけどなぁ、ボール。
ぼくと一緒にしちゃいけないけど、アスカってやっぱり度胸あるよね。
ってゆーか、いざとなればあのくらいは簡単に避けられるんだろうね、たぶん」
「あんたあたしをバカにしてるわけ?」
シンジは、心底驚いたらしい。
息を呑み、目を白黒させている。
「アスカ・・・」
ようやくそれだけ言って、わたしの手を、ギュッと握った。
わたしは吹き出してしまった。
「あたしよ、あたし」
「あ、あれ? アスカなの?」
「そ。あんたとバッティング・センターに行った方」
「なんだ・・・」
「なんだとは何よ、失礼ねー。それが愛する妻に言う台詞?」
「あ、ごめん・・・。
でも、アスカの病気が治ったのかと思って・・・」
わたしは笑った。
シンジも笑った。
「いつか、本当に、こんなふうに、アスカが帰ってきてくれたらいいな」
「ちょっと、なによ、それ。
あんた自信ないの?
あたし、信じてるんだからね?」
「え? あ、だって、それは、頑張るけど、でも、」
「頼りないわねぇ。やっぱりあんたと結婚すんの考えた方がいいかしら」
「そんな・・・。
だけど、ぼく独りじゃダメだよ、アスカが手伝ってくれなくちゃ。
アスカが説得してくれるんだろ?」
「そうだけど、そんなのに頼んないでよね。
あんたがあたしを想う心で、“アスカ”の心を開いてみせてくれなくちゃ。
ね?」
「・・・うん、そうだね。そうだけど、」
「今、あたしが意識を取り戻したのだって、偶然じゃないと思うわよ。
あんたの話で、“アスカ”、結構動揺したんじゃない?」
「そうなのかな」

シンジは、わたしが意識を取り戻したことをマヤに連絡した。
わたしはもう何ともなかったので、ふたりで夕食の準備をした。
今日は、チキン・クリーム・シチューを作った。
圧力鍋を使うと、キャロットもポテトも、あっと言う間に柔らかくなる。
シンジが、これがいちばん美味しい、という、B&Sのルーを使った。
でも、シンジは、それだけじゃなくて、
ブーケ・ガルニ、バター、ミルクなど、シンジ流の味付けをする。
わたしはメモを取りながら説明を聞いた。
こういう、シチュー類は、難しい料理だと思う。
例えばステーキは、肉さえ良ければ、誰が焼いてもそれなりに美味しい。
でも、シチューは、よくよく気をつけて調理しないと、
キャロットもポテトもチキンも、パサパサのボソボソになってしまう。
シンジのシチューのように、どの具もしっとりと仕上げるのは難しい。
シンジは、こういう、芸の細かい料理が得意だ。
お皿によそって、仕上げは、刻んだ生パセリ。
この香りは、市販の乾燥刻みパセリでは絶対に出ない。

結婚したら、シチューは作ってあげたい。

食事のとき、シンジに聞いた。
「“アスカ”に、何を話したの?」
「うん、アスカと結婚するってこと」
「反応あった?」
「ううん。相変わらず、」
「ふうん。ピクリとも動かないわけ?」
「うん、全然」
「内心は動揺してると思うけどねー」
「うん。そうだといいね」

この日記を書いている途中に、もう一度交替があったらしい。
20分ほどだったと思う。
だんだん頻繁になっているような気がする。
シチューを作っている間に交替してしまうようになっては困るのだが。

8月22日 (月)

今朝も、目覚めたのはわたしではなかった。
シンジもだいぶ慣れたらしく、洗濯やらお風呂の支度やら朝食の準備やら、
やることはひととおりやってから、
わたしの意識が戻るのを待っていてくれていた。

いつもより40分ほど遅い出勤となった。
シンジも一緒だった。
「そういえばあんた、こんなに遅くて予備校だいじょぶなの?」
「うん。やめたんだ、予備校」
「ダメよ、あんたは勉強しなくちゃ」
「いいんだよ。
勉強なら、結婚してからアスカに教わればいいし、
だいたい、自分の奥さんがこんなに大変なときに、
勉強どころじゃないよ」
確かに、わたしも、シンジが病気になったら、仕事どころではない。
その気持ちはよく分かった。
「じゃあ、あんた、今日はこれからどうするわけ?」
「うん。アスカを研究棟まで送ったら、家に戻って、介護の勉強」
「なるほどね」
「けっこう面白いんだよ。ね、アスカ、脈の測り方って知ってる?」
「え? 指で手首を押えるんじゃないの?」
「そうだけどさ、人の脈を取るときは、こうやって、反対側から、」
シンジは、わたしの左手首をつまんで腕時計を見て脈を取って見せた。
「15秒測って4倍すればいいんだ」
「ふうん」
「・・・・・・76か。やっぱ、歩いてるから早いね」
研究棟の前に着くまで、シンジはあたしの手を放さなかった。

午前中、マヤとミーティングをした。
前回の失敗の原因に関するわたしたちの仮説は、
どうやら間違いないらしいことが分かってきた。
平たく言えば、心因性ショックである。
あとは、対策をどうするか、だが、これにはマヤにアイディアがあった。
要するに、ショックを感じるほどの心があるから良くないわけで、
最初は赤ん坊から始めようということになった。
ここにはそのための技術もある。
ようやく方針が固まり、ゴールが見えてきた。

午後になって桜井さんが、今やわたしの居室となった処置室にやってきた。
米国出張のお土産を渡しに来てくれたのだ。
しかし、わたしは、彼が誰だか分からず、「誰? あんた」と聞いてしまった。
桜井さんは、こうなることは予測していたらしく、
「ヒドいなぁ」と頭を掻きながらも、落ち着いて、説明してくれた。
そのうち、マヤもやってきた。
わたしは、日記に出てくる「フリオ」なる人物に関する記述を読んで、
目の前の人物をよく知っているはずであることまでは理解できた。
同時に、これだけ印象づけられているはずの記憶を
すっかり忘れさせてしまうことができることに驚いた。
普段想起することのない記憶ほど消え易いことは、
理論としては理解していたが、これほどとは思わなかった。
とても、怖くなった。

わたしは、シンジとは毎日会っているし、
いつもシンジのことを考えているから、シンジを忘れることはない。
でも、それ以外のことは、想起しなければどんどん忘れていく。
オリジナルのアスカの記憶は忘れることはないから、
例えばヒカリのことを忘れることはない。
でも、こっちに来てからヒカリと会ったときのことは、
いつまで覚えていられるか分からない。

その後、15:00から、80分にわたって交替があった。

帰宅してすぐ、わたしは、シンジの腕の中に飛び込んでいた。
シンジは、最初、理由を尋ねていたが、わたしが返事をしなかったら、
そのまま何も言わずに抱きしめていてくれた。

8月23日 (火)

昨日までにまとめた弐号体の覚醒計画が、午前中のミーティングで承認された。
今回の計画の骨子は、弐号体にかかる負荷を減らすため、
記憶の転写を、大きく二段階に分けて慎重にやることである。
第一段階は中枢系を学習させ、この段階で一度覚醒させる。
そして、第二段階で、大脳辺縁系を転写する。
とは言え、記憶は脳の部分に分かれて存在しているわけではないし、
そういう器質ベースの分け方で学習させられるわけでもない。
そこで、マスキングとフィルタリングという技術を使って、
選択的に学習させる方法を採る。
初代MAGIを造ったときに使われた手法だ。
最初に転写するのは、「生物としての綾波レイ」の部分。
その段階で一度覚醒させてから、改めて、
「ヒトとしての綾波レイ」を転写する。
既にわたしの方の準備は整っている。
明日、マヤから弐号体を引き渡してもらって、第一段階の転写を始める。

シンジは、介護の勉強を進めているらしい。
今日は、実技の研修で第2新東京まで行ってきたそうだ。
シンジ以外の受講生は全員大人で、60歳の人もいたらしい。
シンジが、妹の介護をする、と説明したら、ずいぶん同情されたそうだ。

シンジは、同じ受講生の、30代の女性に、
ずいぶん優しくしてもらったらしい。
料理の話で盛り上がったそうだ。
わたしは、少し、妬けた。
でも、シンジが、そうやって世界を広げていくのは、
悪いことであるはずがない。
わたしの世界が狭過ぎるのだ。

8月24日 (水)

午前中から、弐号体への、第一段階の転写準備を始めた。
青い布を首のところまで取り払うと、
またしても、ファーストそっくりの顔が見えた。
今は息をしているだけのこの身体が、やがて生命を吹き込まれ、
ファーストとなる。
そして、きっとシンジを助け、元気づけてくれるに違いない。
そう思うと、わたしは、不思議な感慨を催して、
思わず、ダミーの手を取ってしまいそうになった。

夕食の後、わたしはまた交替したらしい。
気がついたらベッドの上で、部屋は薄暗かった。
わたしは、記憶を手繰りながらベッドから起き上がろうとして、
寝室の床に、リビングのクッションを並べて、シンジが寝ているのを見つけた。
なんだか苦しそうな寝顔だった。
いつもこんな顔で寝ているのだろうか。
わたしのためだろうか。
立ち上がるとき、ベッドが軋んだ音を立て、シンジを起こしてしまった。
「ん・・・? あ、起きたの?」
「うん・・・。付き添っててくれたんだ」
「うん、ちょっと心配だったから」
「そう・・・。ありがとう」
「いいよ、そんなの。夫婦なんだからさ」
シンジは、自分で言って、自分でテれているようだった。
「今何時?」
「えっと、何時だろ・・・」
シンジは腕時計を確かめた。
「4時半だね」
「クッションで寝たりして、身体痛くないの?」
「うん、だいじょぶだよ。
でも、アスカが気がついたんなら安心だから、ぼく、帰るよ」
「眠い?」
「ううん、そんなことないけど・・・」
「じゃあ、今日はもう起きよ。
あたし、やること多いし、ちょうどいいわ」
「うん、分かった」
寝室は、クーラーをかけているとはいえ、少し暑かった。
わたしは、自分もシンジも、昨日と同じ格好をしているのに気がついた。
少し汗臭い。
「あんた、お風呂入った?」
「え? まだだけど・・・」
「じゃあ、こっちで入んなさいよ」
「あ、いいよ、そんな・・・」
「遠慮することないわよ。
あたしも入りたいし、ついでよ、ついで。
エネルギーは節約しなくっちゃ」
「そっか。
じゃあ、お湯張ってくるから」

どっちが先に入るかで少し揉めたが、
どうにかシンジを先に入らせることができた。
わたしがシャワーしか使えないことはまだ言ってないから、
お湯を使った形跡がないと、不審に思われてしまう。

シンジがお風呂に入っている間に、これを書いている。
さっき、お風呂場のドアが開く音がしたから、もうすぐ出てくるだろう。

8月25日 (木)

今日は第一段階の転写をやった。

少し早く起きてしまったので、以前に一度したように、シンジに付添を頼んだ。
シンジがいる間に、ダミーの状態のチェック、転写再開の準備などをした。
シンジに、ダミーの顔を見せてあげた。
「綾波・・・」
「そっくりでしょ?」
「うん・・・」
シンジは、かなり衝撃を受けた様子だった。
頭にたくさん電極がついた状態のダミーを見せたのは、
マズかったかもしれない。
「これがファーストになるのよ」
「うん・・・」
「確かに作りものだけど、心はファーストなんだからね、差別しちゃダメよ」
「分かってるよ。アスカと同じだもん」
「そうね・・・。あたしと同じ」

一緒にお昼ご飯を食べてから、シンジは家に帰った。
夕方になって、弐号体への第一段階の転写は完了した。

今日は早起きだったので、シンジは、夕食を食べ終ったら、
なんだか眠たそうだった。
リビングのクッションでうとうとし始めたので、家に帰した。
わたしは日記をつけようとして寝室の机でパソコンに向かった。
すると、背後から突然、
「精が出るわね」
という声が聞こえた。
わたしは、ビクッとなって、振り返った。
“アスカ”だった。

「シンジと結婚ですって?」
「悪い?」
「別に。
結婚するのはあんたで、あたしじゃないもん。
むしろちょうどいいか」
「どういうことよ」
「だって、あんたが消えれば、
あいつ、一生あたしの世話をすることになるんでしょ?
あいつの人生、それだけでお仕舞いよね。
いい気味だわ」
「じゃあ、目を覚まさないつもりなの?」
「目を覚ましたって意味ないもの。
もうエヴァもないのに。
あたしはもう死んだのも同じ」
「シンジが憎いの?」
「そうね。憎いわね」
「でも・・・。シンジは、あんたを、」
「あいつが勝手に勘違いするのはあいつの勝手。
あたしはあんなガキ、相手にしないわよ」
「それじゃ、シンジの努力は無駄になるってこと?」
「そーいうことね。
何やらくだらないこと考えてるようだけど、
あんた、あたしの中で生き続けようだなんて、
作り物の分際でムシが良過ぎるわよ。
そんなの絶対に許さない。
あたしがあいつを好きになる可能性なんてゼロ。
あり得ないわ」
「何言ってんのよ! あんた、シンジがあんなに好きだったじゃないの!」
「なに? それ。
なんか勘違いしてるみたいだけど、
あたしはあいつを好きだなんて思ったこと一度もないわよ。
あんた、記憶が歪んでるんじゃないの?」
わたしは、ハッとなった。
確かにその可能性はある。
言われてみれば、好きだったと言い切ることはできなかった。
悪い感情も確かにあった。
いや、ダメだ。弱気になってはダメ。
わたしは、こんなところで負けるわけにはいかない。
「・・・それは、あんたの方よ、シンジにちょっといたずらされたからって、
それまでシンジを好きだったことまで忘れて、」
「あんた頭おかしいんじゃないの?
あたしがいつシンジを好きだったってーのよ。
ちゃんと思い出してみなさいよ」
「キスしたときとか、」
「よく言うわねー。あんなのただの当てつけじゃないの」
確かに、そうだったかもしれない。
「浅間山で助けてもらったときとか、」
「別に好きでもなかったでしょ?
助けてもらったのが悔しくて、どうやって借りを返そうか悩んだじゃないの。
忘れたの?」
その通りだった。
「あんたは、ずっと昔からシンジを好きだったっていう物語をでっち上げて、
独りでそれに浸ってるだけじゃないの。
まあ、もうすぐ死ぬんだからそうしたくなる気持ちも分かんなくはないけど、
こっちの迷惑も考えて欲しいわよね」
そうなのだろうか。
わたしは、自分に都合のいい思い出だけを
取り出しては懐かしんでいただけだったのだろうか。
記憶を美化し、事実から目を背けていたのだろうか。
「・・・と、突然出てきて、大人しく聞いてりゃおかしなことばかり言って、
あんただってあたしなんだから、
あたしの目と耳を通してシンジを見てたでしょ。
あいつは、ほんとに、成長して、立派になって、・・・。
それでもあいつを、好きにならなかったって、そう言うの?」
「全然。
あんたこそ、あたしのクセに、趣味悪いわよ」
良く分かった。
今、“アスカ”はシンジを憎んでいる。
記憶と経験が同じだとしても、感情は共有できないのだ。
ひとは、同じ花を見ても、同じように美しいと感じるとは限らない。
あたしと“アスカ”は別人なのだから、当たり前だ。 想いは重ならないのだ。
「それから、言っとくけど、もう二度とシンジとキスしたりしないでよね。
キスしてるのはあんただって分かってはいても、
あたしと同じ顔の女があいつとキスしてるの見てると
気持ち悪くってしょうがないわ」
「あんただってしたことあるじゃない」
「だから一回で懲りたじゃないの。覚えてるでしょ?」
わたしは、当惑と怒りのあまり、論理的な思考を保つのが難しくなっていた。
「・・・あんたには、シンジは渡さないわ」
「ふーん。でも、あんたもうすぐ消えるんでしょ?
論理的に言って、無理だと思わない?」
「うるさい」
「まあ、せいぜい残り少ない、」
「うるさいっ! 出てけっ! あたしの部屋から出てけっ!」
わたしは、机の上にあったボール・ペンを投げつけたが、
“アスカ”はそれをひょいと躱した。
「なによ、ヒステリー? 醜いわねぇ。
まあ、あんたはせいぜい醜く死ぬといいわ」
「うるさいっ」
“アスカ”は部屋を出ていった。
わたしは、荒い息で、“アスカ”が出ていったドアを見つめていた。
そのうち、ハッと気がついて、DVRを再生した。
やはり、二人の声は、両方ともわたしの声だった。

考えが甘かったことを認めざるを得ない。
好き嫌いは論理ではない。
いくら、“アスカ”がシンジを好きだった証拠を探したところで、
“アスカ”が「今」シンジを憎んでいるのだとすれば、
それはどうしようもない。
しかし、このままでは、シンジの人生が“アスカ”に台無しにされてしまう。
それだけは何とかして防がなくてはならない。
そのためにわたしに採れる手段は限られている。
それを実行しなければならない。
シンジのために。

8月26日 (金)

弐号体の覚醒実験を実施した。
9月1日にはUNBELが発足するので、実質的にはこれが最後のチャンスだった。

9:00にスタッフが集合して、覚醒手順を開始した。
今回は、念のため、最初から手術室で、
病院の登録スタッフも呼んでからやることにした。
麻酔を切り、覚醒させる。
この時点では、ファーストは、精神的には生まれたばかりの赤ん坊だ。
案の定、大きな声で泣き始めた。
脈拍はとても早いが、血圧は安定しているようだった。
そのうち、泣き疲れたのか、眠ったように見えた。
涙と涎で、顔がぐしゃぐしゃになっていた。
マヤが、優しく顔を拭いてあげていた。

この状態で3日間生活させ、月曜日に眠らせて、
もう一度全体の転写を行い、再度覚醒させる。
それでうまくいくはずだった。
しかし、覚醒後一時間ほどして、容体が急変した。
血圧が降下し始め、脈拍が不安定になり、呼吸も浅く、早くなった。
前回と同じ症状だった。
昇圧剤も効かなかった。
同じ光景が繰り返された。
今回も、ダミーは正常に覚醒できず、死んでしまった。

原因のひとつは確実に取り除いたはずだった。
でも、それが主因ではなかった。
何か別の原因があったのだ。
心因性ショックは、その引きがねを引いたに過ぎなかった。

しかし、わたしたちには、もはや時間は残されていなかった。

マヤから、もうわたしは出勤する必要はないと言われた。
「後始末はあたしたちでやるから、アスカは、新婚生活を楽しんで」
「そんなに気を遣わなくても、あたしも手伝うわよ」
「ダメ。これは命令よ。出勤を禁止します」
「・・・・・・ありがと」

ダミー・プラントは破棄されるらしい。

机の整理をした。
それほど私物があるわけでもなく、あっと言う間に整理は終ってしまった。
みんなに挨拶をして、いつもより少し早く、わたしは家に帰った。

わたしは、笑顔だったらしい。
シンジは、てっきり覚醒がうまくいったと思ったようだ。
食事が始まってから、そうではないことを話した。
シンジの顔はみるみる落胆の色に染まっていった。
「ごめんね・・・」
「どうして謝るの?」
「だって、あんたもファーストに会えるのを楽しみにしてたでしょ?」
「うん、それはそうだけど・・・」
「そっか、そうよね。あたしは誰かのためにやってたわけじゃないもんね。
自分のためだったんだから、
あんたに謝ってあんたのせいにするのは良くないわね」
「そういう意味じゃないよ・・・。
アスカはベストを尽くしたんだろ?
だったら、もっと胸を張ってよ。
ぼくはアスカは立派だと思うんだ。
逃げ出さないで、やるべきことを頑張ってやったんだから、立派だよ」
「ありがと・・・。あんたって、やっぱ、優しいわね」
シンジはとことん優しい。
おそらく、わたしのためなら何でもするだろう。
してしまうだろう。
わたしは、昨晩考え始めたことを、どうしても決行しなければ、と思った。
シンジがどれだけ悲しむかと思うと、胸が塞いだ。
「これからはさ、」
「なに?」
「アスカの時間は全部、自分のために使ってよ。
残りの時間を、少しでも楽しく、幸せに暮らせるように」
「うん・・・。そうしよっかな」
「それでさ、ぼくの時間も、アスカにあげたいんだ」
「え?」
「これからは、もっとぼくに頼ってよ。
アスカさえよければ、だけど・・・」
「・・・ありがと」
「アスカのために、何ができるか分からないけど、ぼく、いろいろ考えたんだ。
結婚してから、どう過ごすのか、とか」
「あたしのために?」
「うん・・・。聞いてくれる?」
「うん。後で、ゆっくり聞かせて」
わたしの心は、罪の意識でいっぱいだった。
「分かった。まず、ごはん食べ終ったらさ、明日の予定、打合せしようよ。
引っ越しの荷作りとか、結婚の準備とかあるし」
「うん・・・」

しかし、わたしに残されている時間はごく僅かだ。
わたしは、シンジにわがままを言った。
明日一日で、引っ越しと結婚の両方をさせてもらうことにした。
それと、新居の裏庭にファーストのお墓を作ることにした。

8月27日 (土)

わたしたちは、新居に引っ越した。

この日の予定は、前日二人で立てた。
わたしのわがままで、強行軍になってしまった。

シンジに起こしてもらって、シャワーを浴びてから、朝食を採った。
済んだら、大急ぎで荷作り。
シンジの分の荷作りは、前日のうちに終らせたらしかった。
予想に反して、手際がいい。

9時頃、運送屋が到着して、荷物を運び出した。
家具は置いていくので、梱包したものを積み込むだけ。
すぐに終って、出発した。

第1宿舎棟807号室。
短い間だったが、いろんなことがあった。
でも、感慨に浸っている余裕はなかった。
やらなければならないことが山ほどあった。

わたしたちは、途中で、花やら材木やらキャンドルやら工具やら、
今日一日やることに必要なものを購入して回った。
シンジがちゃんとメモにしてくれていて、滞りなくやれた。
お昼ご飯はおにぎりで済ませた。
シンジの作ったおにぎりを食べられるのは、これが最後だ。
大切に、味わって食べた。

新居に到着したのは午後1時だった。
運送屋は既に到着していて、荷物は既に運び込まれていた。
すぐに使うものだけ、直ちに開梱した。

三十分くらいして、ゴタゴタしているところへ、貸し衣装屋さんが到着した。
結婚式の衣装を置いていってくれた。
明日の昼前に取りに来ると言っていた。
果たしてその時刻にシンジは起きているだろうか?

夕方、裏庭にファーストのお墓を建てた。
シンジが、材木を十字架型に組んで、塗装をして、墓標にしてくれた。
横木には、

綾波 レイ
世界を救った少女
ここに静かに眠る

の文字を刻み込んだ。
シンジもわたしも、ファーストがいつ生まれたのか知らなくて、
生没年は書けなかった。
献花して、黙祷した。
いつか、もっとちゃんとした墓石にしてくれるように、シンジに頼んだ。

7時から、ふたりだけの結婚式をした。
式場は、1階の広いリビングにした。
ふたりで、借りてきた衣装に着替えて、キャンドルを灯した。
テラスの方に向かって、並んで跪き、
ミサトのペンダントを置いて、証人になってもらった。
わたしが消えるまでの間、お互いを愛し続けることを誓って、
わたしが生まれてから二度目のキスをした。
今度は、シンジの唇の柔らかい感触を、しっかりと記憶に刻み込んだ。

シンジは、婚姻届を用意してくれていた。
法律で許されている年齢には満たないので、役所には出せない。
それでもいい。
わたしは、サインして、「碇アスカ」になった。
2通作って、そのうちひとつを、大事にしまった。

記念撮影をした。
外はすっかり暗くなっていたので、部屋の中で撮った。
わたしは椅子に座り、シンジはその脇に立った。
夕食の後、プリンタを出して印刷してみたが、とてもきれいに撮れたと思う。

後片付けをして、9時から晩ご飯の準備にかかった。
ところが、今日は、ミサトの陰膳がなかった。
「あれ? ミサトの分は?」
「うん、やめたんだ」
「ふうん・・・」
「いつまでも、ミサトさんに頼ってちゃいけないんだよ。
それは、分かってたんだけど。
もう、ぼくはアスカの、・・・夫なんだ」
シンジは成長した。
わたしが心配しなくても、シンジは大人になる。
自分で判断して実行する力を持つようになる。
「そっか・・・」
「ミサトさんには、さっきちゃんと、
これからはぼくがアスカを守っていきます、って言ったんだ」
「あたし、幸せ者ね」
「そうなるように、頑張る」
「でもさ、もし、シンジが良かったら、続けてあげたら?」
「え?」
「シンジは、あたしとミサトに帰って来て欲しくて、陰膳上げてたんでしょ?」
「うん、だから、」
「あたしは、そのお陰で帰って来られた」
「あ、」
「だからさ、続けてあげても、いいんじゃない?
ミサトに頼るために、甘えるために、戻って来て欲しい、
っていうのは、もうやめるとしてもさ、
今日からは、ミサトを助けてあげるために、続けてあげたら?」
「そっか・・・」
「あたしたちの、・・・家族だったじゃない」
「うん。分かった。そうする」

食後のお茶を飲んでいるとき、わたしは、この日記の存在をシンジに明かした。
「あんたに読まれるのは、ちょっと恥ずかしいところもあるんだけど・・・、
でも、あたしがこの世に存在したことを証明する、
いちばん大事なものだから・・・。
あたしがいなくなったら、読んでくれる?」
「うん、分かった」
「一年後の今日、プロテクトが解けるようにしておくから。
パスワードは、例のあれ」
「マヤさんの?」
「そ」
「分かった」
「一年もしたら、たぶん、あたしはいないからね・・・」
「アスカ、忘れないでよ。アスカは、ぼくがきっと取り戻してみせるんだから」
「分かってるわよ。でも、一年じゃムリなんじゃない?」
「それはそうかもしれないけど・・・」
永遠に無理であることをわたしは知っている。

お風呂に入ったのは、午前0時を回ってからだった。
わたしは、入浴中に交替するのが怖くて、
ここ暫くはシャワーだけだったことをシンジに打ち明けた。
すると、万一に備えて、浴室の外側で待機していると言ってくれた。
擦りガラスの引き戸の外に、シンジが後ろを向いて座っている。
今までの経験から、人格交替するときは、ふわーっとした感覚がしてから、
実際に交替するまでの間に、十秒前後の時間がある。
万一の場合でも、おそらく、浴槽から出て
助けを求めることくらいはできるはずだ。
意識があることが分かるように、わたしが浴槽に浸かっているときは、
シンジとガラス越しにおしゃべりをすることにした。
「でもあんた、あたしが黙っちゃったら、ホントに入って来られるの?」
「うん。任せてよ」
「いつもは恥ずかしがり屋さんなのにね」
「アスカの一大事じゃないか。恥ずかしいなんて言ってられないよ」
わたしは、ちょっといたずらがしたくなって、不意に口を噤んでみた。
「アスカ・・・?」
返事をしなかった。
「アスカ!」
シンジは、慌ててドアを開けて入ってきた。
わたしは、浴槽の縁から頭を出して、シンジに笑いかけた。
「えへへ。ちょっと、テスト」
シンジは、ものすごく怒ったらしい。
顔を真っ赤にしたかと思うと、そのままクルッと後ろを向き、
ガラッと後ろ手に戸を閉めた。
濡れた靴下を脱いで、洗濯篭に投げ入れているようだった。
やがて、脱衣場からも出ていってしまった。
わたしは、シンジと過ごす最後の夜が酷いことになるのではないかと
不安になり、無意味ないたずらを心底後悔した。
手早く上がって浴室を出ようとしたところで、
脱衣場に戻ってきたシンジとハチ合わせになってしまった。
いくらいたずらされて頭にきたとは言え、
持ち場を離れるのはマズいと思ったのだろう。
シンジは、慌てて目を伏せて、
「ご、ごめん」
とだけ言って、後ろを向いた。
わたしは、慌ててバスタオルを身体に巻きつけた。
「謝るのはあたしの方よ。いたずらして、本当に、ごめんなさい。
もう二度としないから・・・、しませんから、赦して・・・下さい」
この場合、もう二度とできないと言う方が正しい。
「・・・びっくりしたぁ・・・」
「え?」
「まさか、ホントに、このタイミングで交替するなんて思わなかったから、
すごく慌てちゃったよ」
「怒ってるんじゃない?」
「ううん。
やられたー、って思ったらさ、なんか、すごく、恥ずかしくなっちゃって」
「ほんと?
でも、さっき、怒ってたみたいに見えたけど」
「ちょっとだけね。
でも、アスカがぼくに敬語使うの初めて聞けたし、もう、気にしないでよ」
「ほんとに、ごめんね」
「いいよ。
新婚さんはさ、たぶん、いたずらくらいするんだよ。
結婚して、うれしくってしょうがないからさ。
だから、そんなことじゃ怒ったりしないんだよ、きっと。
アスカだってさ、いたずらくらいしたいんだよね。
もっと自由に、いろんなことしたいんだよね。
でも、それがなんか、ちょっと深刻な感じになっちゃうのはさ、
状況が状況だから、しょうがないんだよ。
だからって、ぼくがいちいち慌ててたら、アスカだって楽しくないよね」
シンジは、後ろを向いたまま、言った。
わたしは、シンジにいたずらされたら、こんなふうに言えるだろうか。
「スイカ冷したの用意しとくから、着替えたら出て来てね」
「うん」
たぶん、言える。
今なら。
わたしの心は、完全に、シンジのものだから。
そのことが、よく分かった。

シンジがお風呂に入っている間、日記の前半を書いていた。
シンジが上がってから、荷物を一つほどいて、
明日の朝使うものだけ準備した。
衣類、洗濯用具、お手洗いや洗面用の小物類。
それが済んでから、リビングのソファーに並んで座った。
二人で冷たいものを飲みながら、
おつかれさま、って言って、笑った。
今日は一日、ほんとにたいへんだった。

ずいぶん長いこと一緒に暮らしていた気がするけれど、
お互いパジャマ姿で過ごすのは、これが初めてだ。
なんだか、リラックスして、いい気持ちだった。
シンジも同じだったらしい。
ほどなくして、あくびをかみ殺し始めた。
時刻はそろそろ午前2時だったから、無理もない。
「ね、そろそろ寝ようよ、ぼくもう、限界・・・」
名残り惜しかったが、わたしの計画を実行するには、頃合だった。

寝室に置かれていたのはダブルベッドだった。
シンジは、困った顔をしていたが、
わたしの計画のためには都合が良かった。
それに、最後の夜にシンジと一緒に寝るのも悪くないと思った。
「ほんとにいいの?」と言うシンジの手を無言で引っ張って、
覚悟を決めて、ブランケットの下に潜り込んだ。

シンジに腕枕をしてもらった。
最初はちょっとぎこちなかったけれど、すぐに具合のいい場所に落ち着いた。
でも、今日は寝てしまうわけにはいかない。
シンジは、少し緊張しているようだった。
さっきはあんなに眠そうだったのに、今は落ち着かない。
女の子と一緒に寝るのは初めてだろうから、仕方がない。
この状態では少し難しいので、シンジが寝入るまで、待つことにした。

「眠れなさそうね」
「え? いや・・・」
「緊張しちゃう?」
「あはは・・・。
あ、そうだ、明日はさ、アスカの好きな料理、教えてあげるよ」
「うん、ありがとう」
「何がいいかなぁ・・・」
「あんたに任せるわ」
「じゃあ、クリーム・シチューなんてどう?
作ってみたいって、言ってたでしょ?」
そうだった。
忘れていた。
「あのときも、いっぱいメモしてたみたいだけどさ、
まだ教えてないこととか、けっこうあるんだよね。
裏技いっぱい、教えてあげるよ」
わたしの作ったシチューを、シンジが食べて、
笑顔で、美味しいね、って言っているところを想像した。
幸せだった。
でも、その機会は永遠に、無い。
ダメだった。
涙が、後から後から溢れてきた。
我慢できず、最初はしゃくり上げ、やがて、大声で泣き出してしまった。
シンジが戸惑っているのが分かった。
早く泣きやまなきゃ、と思ってはいるのだが、どうしても止まらなかった。
「あ、じゃあ、やっぱり、ハンバーグの方が、いいかな・・・」
本気で言ってるのかどうかは、分からなかった。
でも、あんまり可笑しくて、わたしは声を上げて笑った。
シンジがティッシュを取って、わたしの涙を丁寧に拭ってくれた。
「はなみず出ちゃった」
「あはは、待ってね。・・・はい」
シンジが取ってくれた新しいティッシュで、わたしは、遠慮がちに洟をかんだ。
「シチューがいいな」
普通に話せた。
「分かった。任せて」
「うん。
あたしね、」
「なに?」
わたしは、寝返りを打って、シンジに縋りついて、囁やいた。
「あたし、あんたのこと、愛してる」
「え? うん・・・。あ、ぼくも、」
「前からずっと好きだったのよ」
そう言わずにいられなかった。
「いつから?」
「決まってるじゃない。初めて会ったときからよ」
嘘だ。
「でも、『冴えないやつ』って・・・」
「だからって嫌いだなんて言ってないでしょ?
ドイツにいたときからずっと、サード・チルドレンってどんな人なのかな、
って、気になってたんだから」
「そうなんだ」
「浅間山で助けてもらったときだって、ほんとに嬉しかったんだから」
「ほんと?」
「ホントよ。あんたのこと、気になってしょうがなかったんだもの」
嘘。嘘。全部、嘘。
わたしは酷い女だ。
「あたしたち、きっと、結婚する運命だったのよ」
「そうなのかな、」
「そうよ。絶対」
「うん、でも、」
「あたしがこんなふうじゃなかったら、もっとちゃんと、
普通に恋愛して、普通に大人になって、結婚して、
披露宴とかも、ケーキ・カットとかもしちゃって、
それで、ハネムーンに行ったり、エッチなこととかもしたり、
子供もできて、きっと・・・」
シンジが、わたしを、ギュッ、と抱きしめた。
わたしは、計画を実行すべきかどうかについて、
今さらながら迷い始めていた。
今なら、まだ、引き返せる。
このまま、シンジに身も心も任せて、自分は・・・

シンジが、少し無理な姿勢だったのを変えようとして動いた拍子に、
下腹部が、わたしの太腿に当たったのが分かった。
わたしが、小さな声で、ひゃっ、と言うのと、
シンジが慌てて腰を引くのが同時だった。
「ご、ごめん・・・」
「あはは、いいわよ。事故じゃない。
ほんと、恥ずかしがり屋さんねぇ」
「そっかな・・・」
「そんなんで、さっき、よくお風呂場に飛び込んで来られたわね」
「うん。
あのさ、ちょっと言いにくいんだけど、」
「なに?」
「これからさ、だんだん、もう一人のアスカと交替することが多くなるよね」
「そうね」
「一日中、戻らなかったりすることもあるかも、って、
マヤさんから聞いた」
「そう・・・。
勉強してるのね」
「そうなるとさ、着替えもだけど、身体拭いたり、おむつ替えたり、
ぼくは、そんなこともできなくちゃいけないんだ」
「分かってるわ」
「恥ずかしいと思うけど、」
「いいわよ。夫婦じゃない」
「交替してる時間が長くなってくれば、
点滴とか、カテーテルも入れなくちゃいけないし、
ぼくはまだ資格がないからできないけど、今、勉強してる。
アスカは気がついてないかもしれないけど、
今日運んできた段ボールの中には、血圧計とか、ガーゼとか、消毒液とか、
そんなの使いたくないけど、でも、必ず、必要だから・・・」
「そっか・・・」
「だからさ、ぼくは、恥ずかしいとか、エッチとか、
そんなこと言ってる場合じゃないんだ。
そんなこと言ってられる場合じゃないんだよ。
落ち着いて、何でも、ちゃんとできなくちゃいけないんだ。
さっきみたいに、アスカの裸見たくらいであわくってちゃいけないんだよ。
アスカを守るのはぼくなんだ。
アスカの思い出を守って、もう一人のアスカに目を覚ましてもらって、
思い出を取り戻してもらうんだ。
これが、ぼくがやるべきことなんだ。
アスカが言った通りだよ。見つけたんだ。やるべきこと。
でも、それは、何日かかるか、何ヶ月かかるか、
・・・何年かかるかも分からないんだ。
それでも、恥ずかしくても、苦しくても、みっともなくても、
アスカが、どんなに可哀想でも、ぼくは、絶対、途中で投げ出したり、
諦めたり、絶対、しちゃいけないんだ。
アスカはぼくの大事な・・・、お嫁さんなんだから・・・」

シンジは、とっくに覚悟をしていたのだった。
わたしは、全然、分かっていなかった。
このとき、わたしも覚悟を決めた。
そうだ。やり遂げなくてはならない。絶対に。
シンジには、“アスカ”のおむつを替えるのではない人生を生きて欲しい。

「じゃあ、あたしがいたずらしたから、とかじゃなくて、
あんたの決意を疑うようなこと言ったから、試すようなことしたから、
それで・・・。
あたし、あんたに、」
「あのさ、やめようよ、こんな話。
自分で言っといて、何だけど。
楽しくないからさ・・・。
明日からは、楽しいこといっぱいしようよ」
「・・・うん!」
「アスカはさ、いたずらしたっていいんだよ。
楽しいいたずら、いっぱいしてよ。
そうだ、今度は、ぼくがアスカにいたずらしちゃおっかな」
「あはは、あんたそんな度胸あんの?」
「ないけどさ、でも、思い出は多い方がいいでしょ?」
「・・・あたしが、起きてるときにしてね」
「うん。でも、本気で怒っちゃダメだからね。
大したことするわけじゃないんだからさ」
「怒んないわよ。
あんたが何したって、もう絶対怒らない。
ホントよ。
あんたのためなら、あたし、何でも、どんなことでもできる。
ほんとに、どんなことでも・・・」
そう、どんなことでも。

もう、ずっと以前に、ファーストが対第16使徒戦のときに
自爆したことについて、遺されたシンジの気持ちを考えたら
そんなことできるはずがない、などと考えたことがあった。
でも、今はファーストの気持ちが分かる。
もしも、それが、シンジを救う最も可能性の高い方法だと
分かってしまったら、わたしには他の選択肢は無い。
そうするしかない。
よろこんで、そうする。

シンジは、暫く黙っていた。
寝たのかな? と思ったら、突然、話し掛けてきた。
「じゃあ、あしたの朝さ、」
「うん」
「ぼくの方が早く起きたらさ・・・、キスして起こしてもいい?」
「え?」
「ほら、白雪姫の話、したじゃないか。
あれから気になっててさ・・・。
ぼくたち、結婚したんだからさ、一回、やってみようよ」
「あはは・・・、ありがと」
「じゃあ、いいの?」
「うん、もちろん。
・・・それが、その、いたずら?」
「うん」
「あはは、いたずらするのにあらかじめ予告するなんて、あんたらしいわね」
「そっかな・・・」
しかし、その機会は決して来ない。
わたしは、身をくねらせて、シンジの方へ向き直った。
「ね、今じゃダメ?」
「え?」
「キスよ。明日の朝まで待たなくちゃダメなの?」
わたしは、最後にキスして別れたいと思った。
「あ、えっと・・・。
だって、そんなにしょっちゅうしてたら、価値が下がっちゃうよ・・・」
「可愛い新妻が頼んでるのよ?」
「ベッドの中で、抱き合ってキスだなんて、危ないよ」
「我慢できなくなっちゃう?」
「かも・・・」
「・・・別に、ちょっとくらいなら・・・」
今日は生まれてから最も多くの嘘を吐いた日だったが、
たった今、「どんなことでもできる」と言ったことだけは本当だ。
そのことを、わたしのたった一つの真実を、シンジに知って欲しいと思った。
でも、シンジの喉がゴクっと鳴るのが分かって、急に怖くなった。
とんでもないことを言ってしまったと思って、後悔した。
それは、そんな方法で伝えられるようなことではないのだ。
「・・・ダメだよ、ダメ。
そんな話してると、ぼく寝られなくなっちゃうからさ、もう寝よ」
確かに、それはわたしも困る。
「悪かったわね、変なこと言って」
「ううん」
「今まであんたのことスケベだって思ってたこと、謝るわ」
「あはは・・・」
「おやすみ、シンジ。
今日は、あんたの腕の中で、あんたの夢を見て寝るわ」
「ぼくも、アスカの夢、見られたらいいな・・・」
「どんな夢見たか、いつか、教えてね」
「うん。アスカもね」
「おやすみ、あなた」
「お、おやすみ・・・」

3時半頃、シンジは寝入った。
わたしは、寝入りばなのシンジを優しく揺り起こして、
寝ぼけた状態から素早く催眠誘導し、後催眠暗示を掛けた。
昼前までは何があっても目覚めないように。
それまでは、わたしが家を出ていったことに気付かないように。
これが、わたしがシンジにする、最後のいたずら。

そして今、わたしは、最後の日記を書き上げた。

シンジ、ごめんね。
お料理を教えてもらう約束だったわよね。
勉強を教えてあげる約束だったわよね。
どんな夢を見たのか、教えてもらう約束だったわよね。
全部破ってごめん。
でも、あの女に、“アスカ”に、シンジの一生を
台無しにさせるわけにはいかないの。
赦して・・・。

西暦2016年8月28日 (日)

まだ開梱されていない荷物や、結婚式で使われた衣装などが、隅の方に置かれたままのリビング。 その中央の、ソファーの前に置かれたテーブルの上に、便箋が一枚置かれている。 そこには、相変わらず汚いが、しかし丁寧な文字で、次のように書かれている。

シンジへ

ありがとう ごめん

アスカとあたしのことは忘れなさい。
シンジはシンジの人生を生きて。

P.S.
追ってくるんじゃないわよ
ファーストのお墓からお花を絶やしたりしたらコロすからね

つづく