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西暦2016年8月28日 (日)

午前6時半。 寝室のドアが音も無く開かれ、ドアの隙間からアスカが忍び入る。 ダブル・ベッドの上では、シンジが安らかな寝息を立てている。 アスカは、足音を立てぬよう、慎重に歩を進めると、シンジの枕元に立つ。

暫くそうして躊躇していたが、やがて、寝ているシンジにゆっくりと顔を近付ける。 唇が触れ合い、少しの間の後、シンジの喉が、ゴクリと鳴る。 アスカは慌てて唇を離し、暫くシンジを見ていたが、シンジはそれ以上動かない。 規則正しい寝息を取り戻している。

やがて、アスカは、身を翻し、 入ってきたときと同じように、音もなくドアを開け、寝室から出て行く。

暫くして、シンジが、「アスカ・・・」と呟く。 しかし、それ以上何も言わない。 幸せな夢でも見ているのか、安らかな寝顔である。

午後1時から、マヤ、シンジ、鈴谷保安部長、 それに、警備責任者の長門保安二課長の四者でのミーティングが持たれた。

アスカ失踪の連絡が保安部に入ったのは、午前10時43分。 シンジからの通報だった。 保安部では直ちに情報の収集と捜索に係った。 地元警察の協力を得て、20分後には松代市および長野市に非常線が配置されたが、この時点までに有力な目撃情報は得られていない。

自宅を出たアスカは、アスカ専用に確保されていた保安部の車両で、ネルフ本部に向かったことが分かっている。 保安二課所属の運転手には、残務整理と、忘れ物を取りに行く為だと説明し、午後3時に居室まで迎えに来て欲しいと頼んでいる。 所持品は、やや大きめのボストン・バッグが一つだったが、それほど中身が入っているようには見えなかったと、運転手は証言している。 シンジの証言に依れば、写真立てが一つと、若干の衣類が入っていた筈だということだった。

その後、アスカは、自分がネルフ本部にいるように見せかけるための工作を行ったと推測されている。 アスカ専用の居室である第3処置室に置かれているパソコンが、アスカの所在地を知らせる発信機のリセット・スイッチを、居室内で30分前後の間隔で押したように見せかけるようにプログラミングされていた。 プロセスの起動時刻から見て、この工作は午前8時には終了し、その後直ちにネルフ本部を後にしたらしい。 守衛所には、午前8時12分に、アスカのIDの人物が徒歩で通過したことが記録されている。

「碇君は、惣流さんが立ち寄りそうな場所に、心当たりは有りませんか?」
「あ、えっと、第2新東京の洞木さん、」
「はい、そこには既に要員が配置されています。他には?」
「えっと・・・、分かりません」
「そうですか」
「でも、人格が交替しちゃうかもしれませんから、独りにはならないんじゃ・・・」
「伊吹課長、惣流さんが医者に掛かった場合、機密が漏れる可能性は有りますか?」
「いえ、人格障害自体は自然に存在しますから、よほど精密な検査をしない限り発覚する虞は有りません」
「では、全国の病院に写真入りで手配して構いませんね?」
「ええ、お願いします」

シンジが口を挟む。
「あの・・・」
「何ですか?」
「えっと、アスカがカードを使えば、居場所が分かるんじゃないんですか?」
「はい、そうです」
「じゃあ、一銭も使わずには生活できないから・・・」
「その点、惣流さんはぬかりはないようですよ。 既に多額の現金を入手していると思われます」
「え?」
「通信回線を使って、世界各地の銀行に開いた匿名口座間で、預金の移送を繰り返したようです。 最初の3つの銀行と、その時点での惣流さんの所在地は、既に突き止めましたが、そこから先は、現在照会中です」
「そのときは何処にいたんですか?」
「午前9時14分から、同20分までの間になりますが、松代から長野に向かう列車の中と思われます」
「そうですか・・・」
「普段なら追跡にこんなに時間がかかることもないんですが、惣流さんは今日が日曜日であることを計算したんでしょう。 銀行に預金者の個人情報を開示してもらうには、正式には裁判所命令が必要なんです。 今頃は、既に現金を引き出し終えて、別の口座に移し替えているでしょう。 金の動きから惣流さんの現在位置を突き止めるのは、極めて難しいと言わざるを得ません」
「・・・」
「大丈夫です。安心して下さい。 我々に見つけられないということは、誰にも見つけられません。 惣流さんの身に危険が及ぶ前に、必ず捜し出します」
「よろしくお願いします」

ミーティングは、有効な手立てを見出せぬままに散会した。

西暦2016年9月1日 (木)

この日をもって特務機関ネルフは解体され、新組織UNBELに移行する。 冬月はネルフ司令からUNBEL所長に、研究職は現職のまま新組織にスライドする。 事実上、この4月からは新組織体制で運営されているので、この日に何か特別な変化があるわけではない。 午前9時から、管理棟2階のセミナー室において、UNBEL発足式典が挙行され、その映像が所内に放送されている。 冬月が流暢な英語で述べる、淡々とした所長就任挨拶が所内各所で響いている。

マヤは、居室で、パソコンの画面から流される冬月のスピーチを聞いている。 その表情は虚ろである。 それは、先ほど冬月から突き返され、今もその手にある辞表の所為かもしれない。

西暦2016年10月2日 (日)

眠りを覚ます者がいる。 アスカの頭の中で誰かの声が響く。
「・・・きなさい」
「・・・ん?」
「起きなさいってば」
「・・・誰?」
「あたしよ」
「・・・アスカ?」
「久しぶりねー」
「何の用?」
「やってくれたもんねぇ」
「え?」
「よくもこんな所に連れて来てくれたわね」
「ああ・・・。どう? 気に入ってくれたかしら?」
「ふざけないで」
「至って真面目よ」
「あんたに少し時間をやるから、家に戻りなさい」
「イ・ヤ」
「後悔するわよ」
「はん。今更何しよってのよ? あたしを消すの?
もう半分消えかかってるんだし、そんなの怖くないわよ」
「そうね。もっと辛い目に合わせてあげるわ」
「どういう意味?」
「例えば、そうねぇ・・・。あんた、シンジとキスしたことある?」
「もちろんあるわよ。あんただって知ってんでしょ?」
「いーえ。あたしだけが知ってるの」
「はあ?」
「いつ?」
「何がよ?」
「キスよ、キス」
「え?」
「何処で?」
「あ・・・」
「どんな状況だった?」
「・・・ちくしょう」
「どっちからしたの?」
「ちくしょう!」
「あいつ、何て言ってた?」
「うるさいっ! いいから早く殺せっ!」
「いいザマね。ところで、あんたとシンジの一番大事な約束、何だっけ?」
「・・・」
「それまで忘れたくないでしょ?」
「・・・何故よ」
「何が?」
「あんた何でそんなに家に戻りたいの?」
「あんたさ、もしも誰かに殺されそうになったら、そいつのこと赦す?」
「シンジに、ってこと?」
「そうよ」
「シンジがあたしを殺そうとするのなら、それにはそれなりの理由があるわよ。 赦すかどうかはそれを考えて決めるわ」
「利己的な理由だったら?」
「それは・・・、でも、そんなことあるわけないじゃない」
「あんたにはね。でも、あたしにはそうじゃない」
「サード・インパクトの後の喧嘩のことを言ってるんだったら、あれは別に、シンジだってあんたのことを、」
「違うわよ」
「じゃあ、」
「シンジとマヤは、あんたを作って、あたしを殺そうとしたのよ?」
「・・・」
「どう? 仕返しのひとつくらいしてやってもいいと思わない?」
「それは・・・」
「分かったら家に戻りなさい」
「ダメよ、そんなことさせない」
「ふーん。じゃあ、あんた、忘れてもいいっての? シンジと結婚したことも、シンジが忘れないって約束してくれたことも、 全部忘れていいっての?」
「・・・いいわよ! それでもいい! 全部忘れたっていい! シンジには、あたしのことは忘れろって、書き置きしてきたもん! あんたなんかに、あんたなんかに、シンジは、絶対に、死んでも、渡さない! 渡すもんか!」
「あんたにそんなこと言う権利ないでしょ?」
「あるわよ。あたしは死ぬ事だってできたのに、一応ここにあんたを連れてきてあげたじゃない。 少しは感謝したらどうなの?」
「あたしたちが死んだらそれはそれで面倒はなかったわね。 こっちは別にそれでも良かったけど?」
「だいたい、そんなの変じゃない! シンジが憎いんだったら殺せば済むことでしょ? なんだってそんなまわりくどいことすんのよ?!」
「まあ、それでもいいんだけど。 どっちにしろあいつの近くにいる必要があるわよね」
「・・・ちょっと待ってよ」
「いいわよ。なあに?」
「・・・あんただって、知ってんでしょ? シンジは、最初の頃はずっと、あたしのことをあんただと思ってたのよ」
「そうみたいね」
「アスカが僕のことを思い出してくれたのがうれしかった、って、そんな感じのこと言ってたじゃない。 こういうこと言うのほんと悔しいけどね、あたしは、あんたの代わりにあたしが愛される資格があるのかどうか、随分悩んだのよ」
「それが何?」
「そのことでシンジを恨むのは、お門違いってことよ」
「・・・」
「そんなこと、あんたにだってもちろん分かってるわよね。あんた、あたしだもんね」
「別に、あいつへの恨みはそれだけじゃないわよ」
「例えば?」
「知ってるでしょ? あいつがやったことは」
「知ってるわよ。全部。でも、それでもあたしはシンジが好き。 なのに何故あんたは・・・」
「それは、あんたと違って、こっちはリアルタイムだったからよ。想いが濃いのよ」
「そんなことあるわけないじゃない。あたしはあんたから分かれたのよ? そのときどう感じたかだって知ってるわ。 あんたが思い出せることは、あたしだって思い出せる」
「だから、あんたはあいつにたぶらかされたのよ。 随分優しくしてもらってたみたいじゃないの」
「それはあんただって知ってることでしょ?」
「知ってるわよ。でも、あんたが出てきた後は、あんたの経験じゃないの。 あたしじゃないわ。あたしが謝ってもらったわけじゃない」
「シンジは、あんただと思って、あたしに謝ってたのよ。 あの言葉は、すべて、あたしじゃなくて、あんたに向けられたものだったのよ。 あの日、研究棟の屋上にいたのが、あたしじゃなくってあんただったとしても、シンジは同じように謝って、優しくしてくれたわよ」
「うるさいっ! あんたねっ! 毎日あたしんとこ来て、あたしに話し掛けて、ご機嫌取ろうとしてたやつが、 あたしが寝てるすぐ隣で、あたしとおんなじ顔した女に、好きだって言って、 キスして、抱きしめて、毎日々々・・・、それなのに、あたしの方は見向きもしない! ずっとそんなの見てたら、どういう気持ちになると思ってんのよ!」
「・・・アスカ・・・」
「うるさい!」
「あんたの気持ち、」
「うるさい! いいから戻れ! 早く!」
「分かる。あたしも同じ気持ちだったから」
「うるさい・・・」
「そっか・・・。 そうだったのか。 おかしいと思ったのよね。 あたしは、嫌いなヤツに一生面倒見させるなんてこと、思いつかないもん。 あたしはもうちょっと単純な性格だもんね」
「あんたなんかと一緒にしないで!」
「うん、確かに、違うところもあるかもね・・・。 そうだ、あんたが着てるその服、それ、どっかで見たことあると思ったら、昔、シンジと一緒に服買いに行ったときに選んでもらったやつよね? シンジに、『それがいちばん似合うと思ってた』って言われて、ちょっと、ううん、けっこう、嬉しかったもんね。 だからか」
「・・・」
「でも、シンジはそんなこと言ったの忘れちゃってるかな」
「それが、まだ覚えてるのよ。どうでもいいことなのに」
「そうなの?」
「・・・」
「まあ、いいわ。 あんたの気持ち、分かるわよ。 当たり前か、あたしはあんたなんだもんね」
「違うわ」
「あんたたち、色々あり過ぎたのよ。 単純に好きとか嫌いとか言ってられる関係じゃなかったし。 悪い時期に悪い状況で出会って、お互い悪いところを見過ぎたもんね。 でも、ほんの一時期だったかもしれないけど、この人なら、って思ったのはほんとだった。 それなのに、その人を、突然出てきたわたしが横取りしちゃったのね。 本当は、自分が掛けてもらえるはずだった、ずっと聞かせてもらえるはずだった優しい言葉を、途中から、わたしが取っちゃったんだね」
「・・・好きじゃないわよ」
「え?」
「あんなやつ、好きじゃない! だいっきらい!」
「うん。それでもいいと思う。今分かった。それでいいのよ」
「何で・・・」
「え?」
「何でそんなにシンジが好きなのよ! あんたあたしでしょ? どうしてよ!」
「好きなんだもん。好きになるのに理由なんて必要? 強いて言えば、シンジがあたしを、あたしたちを、好きだからかな」
「あんなやつ信じるの? あいつはあたしを裏切ったのよ!」
「裏切られるようなことしたからじゃないの。 シンジに助けてもらったくせに、シンジのことからかって危うく殺しかけたし。 シンクロ率で敗けたのはシンジのせいじゃないのに、当て付けてばっかで。 ずっとイジメられて悩んでたって、シンジも言ってたわよね。 最後までシンジのこと理解しようとしなかったから、とうとう愛想つかされたってことでしょ」
「理解してたわよ! あいつにとってあたしはファーストやミサトの代わりでしかなかったのよ! なによ、あたしに逃げ込みたかっただけじゃないの! 要するにガキなのよ! ママの代わりが欲しいってだけじゃないの!」
「そうかもね。でも、それはあたしたちも同じでしょ? あたしたちまだ14歳じゃない。 好きな人に逃げ込むのがそんなにいけないこと?」
「年は関係ないわよ」
「そうよ。 誰だって、誰かに逃げ込みたいことはあるのよ、きっと。 それに、今のシンジは強いわよ。 もう、僕はアスカの夫なんだ、って、どんなに苦しくても、絶対、途中で逃げ出したりしちゃいけないんだ、って、あんたも聞いてたでしょ? 今なら、あたしたちを助けてくれるわよ。 たまにお母さんの代わりをしてあげるくらい、いいじゃない。 お互いさまよ」
「無理よ、あたしには、」
「あたしは、シンジを赦せたわ。心の底から。 あたしにできて、あんたにできないはずない。 だいじょうぶ、できるわよ、絶対」
「無理よ。だって、赦したくないんだもの・・・」
「それは、たぶん、シンジが何とかしてくれると思う。 ・・・でも、ごめん。 あたし、家まで戻れそうにないや。 もうすっかり弱ってて、記憶があちこち穴だらけ。 もう、どうやってここまで来たか分かんないもん。 それに、気付いてるかどうか分からないけど、これ、あんたの共在意識よ。 あたしじゃないわ。 あんた、ホントに、あたしを表に出せる?」
「・・・役立たずね」
「あはは、そうしたのは誰よ? 手加減ないのねぇ・・・。 あんた、自分で戻ればいいじゃない。 ここがどこだか、あんたは知ってるんでしょ?」
「イヤよ。あたし、もう、二度と、目は覚まさないって決めたんだもの」
「どうしてよ」
「もうこの世界にあたしの居場所なんてないもの! エヴァはもうないのよ! いったいあたしが何年、そのために頑張ってきたと思ってんのよ! あれが、全部、無駄になったのよ!」
「あんたの価値はそれだけじゃないわよ」
「あんただって思い知ったでしょ! ネルフの研究所で、あんた、お荷物だったじゃないの! 他の課員の半分も仕事できなくて! ファーストのサルベージだって2回も失敗して! あたし、そんなの耐えらんない! あたしが一番じゃなきゃダメなのよ!」
「あんたが一番だって、思ってる人もいるわよ」
「いないわよ!」
「そうだ。ね、アスカ、あたしの目を見て」
「・・・」
「だいじょぶ。怖くないわ。あなたに贈物をあげたいの」
“アスカ”がゆっくりと視線を上げ、アスカと視線を合わせる。 アスカは柔らかい眼差しで“アスカ”を見つめると、視線を逸さずに続ける。
「さあ、あなたにはもうわたしの声しか聞こえないわ」
“アスカ”の目は虚ろである。
「いい、これからあたしの言うことを良く聞くのよ。 シンジはたぶん、あんたを見つけてくれると思う。 絶対、見つからないところに来たつもりだったけど、でも、シンジは、あたしには想像もつかないような方法で、あんたを見つけちゃうんじゃないかな。 あんたと話してたら、そういう気がしてきたわ。 ね、シンジに賭けてみようよ。 シンジが、あんたの本当の価値を教えてくれる。 あんたが、自分の人生を生きる価値のある人間だ、って、教えてくれるわ。 だから、もしも・・・、もしもシンジがあんたにキスしてくれることがあったら、そしたらあんたは、閉ざした心を開いて、目を覚ますの。 そして、シンジを好きだった頃の自分を思い出すのよ。 それから、あんたの分身であるあたしの記憶も、全部、思い出すの。 その上で、シンジが本当はどんなやつなのか、先入観に因われずに判断しなさい。 そして・・・、後はあんたが自分で決めなさい。 やりたいようにやるのよ。 シンジが、必ず、助けてくれる。 だから、もう心を閉ざしてはダメ。 いいわね? 分かったら返事」
「・・・うん」
「よし。 それじゃ、わたしが三つ数えたら、あんたは自分の意識を取り戻す。 いくわよ? 1、2、3!」

西暦2016年12月3日 (土)

福島県いわき市にある、民間の重度精神障害者介護施設に、アスカはいた。

それは、まったくの偶然だった。 たまたま、保安部のある職員の家族が、同じ施設に入所していたために、見舞いに行ったその職員が発見したのだった。

保安部からアスカ発見の連絡が入ったのはこの前日であった。 マヤはたまたまフランス出張中だったので、シンジが、保安部員一名と、付属病院の松村医長と共に確認に向かった。

3人が施設に到着する。 「受付」と書かれたカウンターの向こうには、年配の女性が座って、本を読んでいる。 入り口の自動扉が開いたことに気付いたその女性は、顔を上げ、シンジを認めると立ち上がった。 シンジが、声を掛ける。
「あの・・・、すみません・・・」
「はい・・・。あの、碇さんのご家族の方ですよね?」
「はい。・・・えっ?」
「あ、すみません、碇アスカさんが大事にされてるお写真に、あなたが写ってらしたものですからね、」
「あ・・・」

シンジが病室の扉をノックすると、中から、既に詰めていた保安部員が扉を開ける。 松村医長と施設側の許可が出次第、アスカとその所持品の回収、および遺留機密の捜索に移る構えである。

部屋に一つだけのベッドには、アスカが横たわっている。 松村がバイタルの準備を始めた脇で、シンジはゆっくりとベッドに近付き、側の椅子に腰を下ろすと、アスカの手を取る。 目の前にいるのが、シンジと二ヶ月にわたって共に暮らし、シンジの妻となった少女でないことは明らかである。 シンジは、しかし、優しい表情で、
「迎えに来たよ」
と言った。

夕方、アスカの身柄はUNBEL付属病院に移送された。

西暦2017年8月27日 (日)

午後3時過ぎ、シンジは、日記を読み終えた。 一年前のこの日、これを書いた人物から読んで欲しいと言われた日記である。 長く、悲しい記録である。 シンジは、しかし、最後まで泣くことはなかった。

アスカ発見の後、出張から戻ってきたマヤは、アスカを病院に置き、自分が面倒を見る、と主張した。 しかし、シンジは、それは夫たる自分の役目だ、と言って断った。 以来、シンジは、在宅介護の勉強を続けながら、毎日病院のアスカを見舞っていた。

アスカの状態は、依然として無反応ではあるものの、人工人格形成の前よりはかなり良くなっていた。 全身機能に問題はなく、点滴による栄養補給も有効で、それほどやつれては見えない。 確実に死に向かいつつあった頃に較べれば、生きていること自体は受け入れているかのようである。

シンジの勉強は捗り、どうやら自宅でアスカの面倒を見られるまでになった。 最初の結婚記念日であるこの日、シンジは、アスカの身柄を、二人の新居となるはずだったこの家に引き取ることにしていた。

そして、午後5時。 シンジとアスカを乗せた車が、玄関の前に到着する。 シンジは、アスカを車椅子に座らせ、タオルケットを掛けて、玄関まで連れていく。

リビングがアスカの病室となるようである。 シンジは、アスカをベッドに横たえると、状態をチェックし、着替えをさせる。 そして、ささやかな、結婚記念日のお祝いをする。 結婚式の写真を飾り、ステレオから、音量を絞って音楽を流す。 用意してあった、アスカの好物をテーブルに並べる。

美味しそうな香りが部屋に満ち溢れるが、アスカは何の反応も示さない。 シンジは、それを期待していたのか、それとも、それほど期待してはいなかったのか。 自分の食事を手早く済ませると、アスカの分としてよそったものは、そのままラップをかけて冷蔵庫に戻した。 後片付けを済ませると、再び部屋に戻り、ベッド・サイドの椅子に腰掛け、アスカの手を握りながら、とりとめのない話を始める。 アスカの発見後、毎日のお見舞いの中で何度もした話が、微妙に順番や表現を変えながら、繰り返される。 しかし、この日は、初めて、アスカの人工人格が消え去る運命にあると知った日のことを話した。 どれほど驚き、悲しかったか。 そのとき自分が何を考えたのか。 その感情を、そのときの決意を、切々と語る。 そして、シンジは、
「アスカの手紙、『忘れなさい』って書いてあったけどさ・・・、ぼく、絶対忘れないって、約束したじゃないか。 忘れちゃったの?」
と言った。 次の瞬間、シンジは、腰を浮かし、目を見開き、アスカの表情を確かめるように覗き込んだ。 何かの変化をそこに認めたのだろうか。 しかし、アスカの様子に目立った変化はない。 シンジは、気のせいだと結論したのか、表情を落胆の色に染め、再び椅子に座り直した。

リビングの床、ベッドの脇に、マットレスとシーツが敷かれている。 シンジ自身も、この部屋に寝るつもりなのだろう。

シンジのやるべきことは多い。 寝る前には、留置針の処置、貯尿袋の処理、それにマッサージをすることにしている。 それらが済んだ後、アスカにおやすみを言う。

そして、一度はシーツの上に横になったが、暫くして再び立ち上がる。
「そっか・・・、確か、去年は、おやすみのキスを、最後のキスをしてあげなかったんだっけ。 あのときは、ごめんね。 代わりにはならないかもしれないけど・・・」
シンジは、アスカの顔を覗き込む。 一度視線を外し、大きく深呼吸をして、また覗き込む。

それから5分後。
「なにすんのよっ! このヘンタイっ!」
アスカの大きな声が家の中に響き渡る。

アスカは、シンジの横面を張ろうとしたものか、右手を動かしたが、8ヶ月間、殆ど動かされなかった筋肉は思うように動かなかったらしい。 弱々しく空を切ると、自分の胸の上に虚しく落ちた。
「あ、・・・」
シンジは、心底驚いた様子である。 しかし、アスカは何も言わない。 暫くの間二人は見詰め合って固まっていたが、やがてアスカの目が周囲を見回す様に動く。 ようやく我に返ったシンジが問い掛ける。
「帰って来てくれたの?」
アスカはそれには答えず、質問を返す。
「ここ、あの家?」
「うん、アスカの家だよ」
「そう・・・」
「綾波のお墓、ちゃんとお花をあげてるよ」
シンジはアスカに笑い掛ける。
シンジの顎を伝った涙が、アスカの頬をかすめて、枕に落ちる。
「お帰り・・・」
「待ちなさいよ。あたし、あの子じゃないわよ」
「え?」
「あたしは本物のアスカ。あんな作りものと一緒にしないでよね」
「そうなんだ・・・」
「馴れ馴れしくしないでって言ってんのよ!」
シンジの顔は、アスカの目の前に近付けられたままである。
「ごめん・・・」
そう言いながら、シンジはベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。
「・・・気っ持ち悪いっ・・・」
「あ、気分悪いの?」
「・・・あんた、あたしにキスしたわね?」
「ご、ごめん・・・」
「あんた何の権利があってそんなことすんのよ?!」
「あ、あの、一応、夫・・・」
「それはあの女との話でしょうが! ふざけんじゃないわよ!」
「そ、そうだよね、ほんとに・・・、つい・・・、ごめん・・・」
「・・・」
「あ、あの・・・」
「何よ」
「脈拍と血圧、測ってもいい?」
「とっととやれば?」
「うん」
「撫で回したりすんじゃないわよ」
「分かってるよ」
「どうだかね。あんたスケベだから困るわ」
「・・・」
「何よ、その目は」
「・・・何でもない」
「何か文句でもあんの? さっきの着替えのときだって、やらしい目でジロジロ見てたじゃないのさ」
「そんなことしてないよっ!」
「言い訳したってムダ。あたし見てたんだからね? いくらこっちが抵抗しないからって、調子に乗り過ぎなのよ、このスケベ」
「・・・」
「次からは目瞑ってやんのよ」
「・・・分かったよ」
「で、どうなのよ」
「何が?」
「血圧よ。測ったんでしょ?」
「あ、うん、120の80」
「それで?」
「うん、異常ないと思う」
「『思う』?」
「あ、あの、異常ないよ、だいじょぶ。丸っきり正常」
「あんた、だいじょぶなんでしょうね?」
「うん、あの、マヤさんにもすぐに連絡するから、安心してよ」
「・・・」
「あの・・・」
「何よ。まだ何か用なの?」
「・・・」
「じゃあ、とっとと出てって」
「でも、まだ、アスカ独りじゃさ、」
「いいから出てきなさいよ。 それともあんた、まさかここで一緒に寝ようなんて考えてるんじゃないでしょうね?」
「だって、夜中に何かあったら危ないよ」
「・・・じゃあ、そこのキッチンで寝れば? 何かあったら呼ぶから」
「でも、あそこ、布団敷けないよ」
「床に寝ればいいでしょ?」
「・・・分かった。夜中に、ときどき、様子見に来るから」
「・・・」
「・・・おやすみ」
シンジは、俯いて、ゆっくりと歩み去ろうとする。 台所へと通じる敷居に足をかける。 しかし、そこで歩みを止め、振り向くと、顔を上げ、 アスカに向かって話し掛ける。
「あのさ・・・」
「・・・」
「あの日、アスカがいなくなった日、僕、アスカの夢を見たよ」
「・・・」
「僕たちに子供ができてさ、三人で幸せに暮らしてる夢だった」
「・・・」
「アスカにそっくりな女の子だったんだよ。可愛くて、頭が良くて・・・」
「・・・」
「アスカは、どんな夢を見たの?」
「・・・あの女、あの夜は寝なかったみたいよ」
「そうなんだ・・・」
「・・・」
「僕、アスカが好きだよ」
「・・・」
「アスカがどんなふうになっても、僕のこと、嫌いでも、それでも、好きだよ。 僕は、アスカじゃなくちゃダメなんだ」
「・・・だから何? キスでもさせてくれっての?」
「違うよ」
「じゃあ何よ?」
「・・・覚えてるんだろ? もう一人のアスカだったときの思い出、残ってるんだろ?」
「うっさいわねぇ」
「だって・・・」
「あたしがいない間にあんたとあの女が何を企んでたかは知ってるわよ。それがどうかしたの?」
「良かった・・・」
「良かないわよ」
「僕、諦めない。アスカの可能性、信じてるから」
「フン。どうせ・・・、すぐ諦めるクセに」
「諦めないよ。アスカに、もう一度赦してもらえるまで、絶対、諦めない」
「赦すわけないでしょ? あんたとマヤがあたしに何をしたか、あたし、知ってんのよ? あんた達、あたしを殺そうとしたんじゃないの! 赦せるわけないでしょ?!」
「そうだよね・・・。でも、諦めない」
「・・・勝手にすれば?」
シンジは目を伏せ、再び後ろを向くと、とぼとぼと部屋を出ていく。

独り残されたアスカは、暫く天井を見回していたが、やがて、身体を起こそうとして、もがき始める。 ようやく首だけを回し、部屋の様子を見る。 テーブルの方を眺めたとき、アスカの視線が一枚の写真に吸い寄せられる。 先ほどシンジが飾った、結婚式の記念写真である。 純白のドレスに着飾ったアスカが、椅子に座り、静かに微笑んでいる。 心底幸せそうな表情である。 その隣に寄り添うように、濃紺のスーツに身を包んだシンジが立っている。 こちらはやや緊張した表情である。 写真を見つめるアスカの目に、みるみる涙が湧き上がり、溢れ、頬を伝う。 やがて、目を閉じ、啜り泣き始める。 部屋の中に嗚咽が響く。
「ちくしょう・・・」

西暦2017年9月1日 (金)

裏庭の綾波レイの墓の隣に、真新しい墓が作られた。 埋められているのは、棺ではなく、小さな箱である。 その中には、“Remembrance”と題された一枚のフロッピー・ディスクと、美しく額装された写真が一枚、納められている。

墓を作ったのは、この家に住んでいる少年である。 葬られたのは、彼の妻である。

今日も、彼は戦っている。

後書き