| 贈物 |
| 西暦2016年8月28日 (日) |
|
午前6時半。 寝室のドアが音も無く開かれ、ドアの隙間からアスカが忍び入る。 ダブル・ベッドの上では、シンジが安らかな寝息を立てている。 アスカは、足音を立てぬよう、慎重に歩を進めると、シンジの枕元に立つ。 暫くそうして躊躇していたが、やがて、寝ているシンジにゆっくりと顔を近付ける。 唇が触れ合い、少しの間の後、シンジの喉が、ゴクリと鳴る。 アスカは慌てて唇を離し、暫くシンジを見ていたが、シンジはそれ以上動かない。 規則正しい寝息を取り戻している。 やがて、アスカは、身を翻し、 入ってきたときと同じように、音もなくドアを開け、寝室から出て行く。 暫くして、シンジが、「アスカ・・・」と呟く。 しかし、それ以上何も言わない。 幸せな夢でも見ているのか、安らかな寝顔である。 ◇
午後1時から、マヤ、シンジ、鈴谷保安部長、 それに、警備責任者の長門保安二課長の四者でのミーティングが持たれた。 アスカ失踪の連絡が保安部に入ったのは、午前10時43分。 シンジからの通報だった。 保安部では直ちに情報の収集と捜索に係った。 地元警察の協力を得て、20分後には松代市および長野市に非常線が配置されたが、この時点までに有力な目撃情報は得られていない。 自宅を出たアスカは、アスカ専用に確保されていた保安部の車両で、ネルフ本部に向かったことが分かっている。 保安二課所属の運転手には、残務整理と、忘れ物を取りに行く為だと説明し、午後3時に居室まで迎えに来て欲しいと頼んでいる。 所持品は、やや大きめのボストン・バッグが一つだったが、それほど中身が入っているようには見えなかったと、運転手は証言している。 シンジの証言に依れば、写真立てが一つと、若干の衣類が入っていた筈だということだった。 その後、アスカは、自分がネルフ本部にいるように見せかけるための工作を行ったと推測されている。 アスカ専用の居室である第3処置室に置かれているパソコンが、アスカの所在地を知らせる発信機のリセット・スイッチを、居室内で30分前後の間隔で押したように見せかけるようにプログラミングされていた。 プロセスの起動時刻から見て、この工作は午前8時には終了し、その後直ちにネルフ本部を後にしたらしい。 守衛所には、午前8時12分に、アスカのIDの人物が徒歩で通過したことが記録されている。
「碇君は、惣流さんが立ち寄りそうな場所に、心当たりは有りませんか?」
シンジが口を挟む。 ミーティングは、有効な手立てを見出せぬままに散会した。 |
| 西暦2016年9月1日 (木) |
|
この日をもって特務機関ネルフは解体され、新組織UNBELに移行する。 冬月はネルフ司令からUNBEL所長に、研究職は現職のまま新組織にスライドする。 事実上、この4月からは新組織体制で運営されているので、この日に何か特別な変化があるわけではない。 午前9時から、管理棟2階のセミナー室において、UNBEL発足式典が挙行され、その映像が所内に放送されている。 冬月が流暢な英語で述べる、淡々とした所長就任挨拶が所内各所で響いている。 マヤは、居室で、パソコンの画面から流される冬月のスピーチを聞いている。 その表情は虚ろである。 それは、先ほど冬月から突き返され、今もその手にある辞表の所為かもしれない。 |
| 西暦2016年10月2日 (日) |
|
眠りを覚ます者がいる。
アスカの頭の中で誰かの声が響く。 |
| 西暦2016年12月3日 (土) |
|
福島県いわき市にある、民間の重度精神障害者介護施設に、アスカはいた。 それは、まったくの偶然だった。 たまたま、保安部のある職員の家族が、同じ施設に入所していたために、見舞いに行ったその職員が発見したのだった。 保安部からアスカ発見の連絡が入ったのはこの前日であった。 マヤはたまたまフランス出張中だったので、シンジが、保安部員一名と、付属病院の松村医長と共に確認に向かった。
3人が施設に到着する。
「受付」と書かれたカウンターの向こうには、年配の女性が座って、本を読んでいる。
入り口の自動扉が開いたことに気付いたその女性は、顔を上げ、シンジを認めると立ち上がった。
シンジが、声を掛ける。 シンジが病室の扉をノックすると、中から、既に詰めていた保安部員が扉を開ける。 松村医長と施設側の許可が出次第、アスカとその所持品の回収、および遺留機密の捜索に移る構えである。
部屋に一つだけのベッドには、アスカが横たわっている。
松村がバイタルの準備を始めた脇で、シンジはゆっくりとベッドに近付き、側の椅子に腰を下ろすと、アスカの手を取る。
目の前にいるのが、シンジと二ヶ月にわたって共に暮らし、シンジの妻となった少女でないことは明らかである。
シンジは、しかし、優しい表情で、 夕方、アスカの身柄はUNBEL付属病院に移送された。 |
| 西暦2017年8月27日 (日) |
|
午後3時過ぎ、シンジは、日記を読み終えた。 一年前のこの日、これを書いた人物から読んで欲しいと言われた日記である。 長く、悲しい記録である。 シンジは、しかし、最後まで泣くことはなかった。 ◇
アスカ発見の後、出張から戻ってきたマヤは、アスカを病院に置き、自分が面倒を見る、と主張した。 しかし、シンジは、それは夫たる自分の役目だ、と言って断った。 以来、シンジは、在宅介護の勉強を続けながら、毎日病院のアスカを見舞っていた。 アスカの状態は、依然として無反応ではあるものの、人工人格形成の前よりはかなり良くなっていた。 全身機能に問題はなく、点滴による栄養補給も有効で、それほどやつれては見えない。 確実に死に向かいつつあった頃に較べれば、生きていること自体は受け入れているかのようである。 ◇
シンジの勉強は捗り、どうやら自宅でアスカの面倒を見られるまでになった。 最初の結婚記念日であるこの日、シンジは、アスカの身柄を、二人の新居となるはずだったこの家に引き取ることにしていた。 そして、午後5時。 シンジとアスカを乗せた車が、玄関の前に到着する。 シンジは、アスカを車椅子に座らせ、タオルケットを掛けて、玄関まで連れていく。
リビングがアスカの病室となるようである。
シンジは、アスカをベッドに横たえると、状態をチェックし、着替えをさせる。
そして、ささやかな、結婚記念日のお祝いをする。
結婚式の写真を飾り、ステレオから、音量を絞って音楽を流す。
用意してあった、アスカの好物をテーブルに並べる。
美味しそうな香りが部屋に満ち溢れるが、アスカは何の反応も示さない。
シンジは、それを期待していたのか、それとも、それほど期待してはいなかったのか。
自分の食事を手早く済ませると、アスカの分としてよそったものは、そのままラップをかけて冷蔵庫に戻した。
後片付けを済ませると、再び部屋に戻り、ベッド・サイドの椅子に腰掛け、アスカの手を握りながら、とりとめのない話を始める。
アスカの発見後、毎日のお見舞いの中で何度もした話が、微妙に順番や表現を変えながら、繰り返される。
しかし、この日は、初めて、アスカの人工人格が消え去る運命にあると知った日のことを話した。
どれほど驚き、悲しかったか。
そのとき自分が何を考えたのか。
その感情を、そのときの決意を、切々と語る。
そして、シンジは、 ◇
リビングの床、ベッドの脇に、マットレスとシーツが敷かれている。 シンジ自身も、この部屋に寝るつもりなのだろう。 シンジのやるべきことは多い。 寝る前には、留置針の処置、貯尿袋の処理、それにマッサージをすることにしている。 それらが済んだ後、アスカにおやすみを言う。
そして、一度はシーツの上に横になったが、暫くして再び立ち上がる。
それから5分後。
アスカは、シンジの横面を張ろうとしたものか、右手を動かしたが、8ヶ月間、殆ど動かされなかった筋肉は思うように動かなかったらしい。
弱々しく空を切ると、自分の胸の上に虚しく落ちた。
独り残されたアスカは、暫く天井を見回していたが、やがて、身体を起こそうとして、もがき始める。
ようやく首だけを回し、部屋の様子を見る。
テーブルの方を眺めたとき、アスカの視線が一枚の写真に吸い寄せられる。
先ほどシンジが飾った、結婚式の記念写真である。
純白のドレスに着飾ったアスカが、椅子に座り、静かに微笑んでいる。
心底幸せそうな表情である。
その隣に寄り添うように、濃紺のスーツに身を包んだシンジが立っている。
こちらはやや緊張した表情である。
写真を見つめるアスカの目に、みるみる涙が湧き上がり、溢れ、頬を伝う。
やがて、目を閉じ、啜り泣き始める。
部屋の中に嗚咽が響く。 |
| 西暦2017年9月1日 (金) |
|
裏庭の綾波レイの墓の隣に、真新しい墓が作られた。 埋められているのは、棺ではなく、小さな箱である。 その中には、“Remembrance”と題された一枚のフロッピー・ディスクと、美しく額装された写真が一枚、納められている。 墓を作ったのは、この家に住んでいる少年である。 葬られたのは、彼の妻である。 今日も、彼は戦っている。 |
| 後書き |
| EVANGELION: Remembrance |