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羽化

とある事情から、香水はどのくらいで移り香するかを実地で調査してみよう、という話になった。 ヒカリは大乗り気で、自ら臭気判定員を買って出てくれた。 ただし、被験者をシンジにすることが条件、だそうだ。 こんなめんどくさい話を、ヒカリ以外のヒトにもう一度したくはないし、 シンジなら事情を説明せずとも指示さえすれば良いので、わたしも都合がいい。 それに、シンジには確かめておきたいこともあった。

この日は、ミサトから帰りが遅くなると連絡があったので、調査を実施することにした。 ヒカリを連れて、シンジと一緒に家に戻った。 まずは、ミサトの部屋からラベンダーの香りの香水を拝借してきて、両方の手首と首筋に少しずつ。 軽くこすると、とてもいい香りがする。 ヒカリにも香りを覚えてもらってから、シンジの部屋に待機してもらった。

最初は、キッチンの椅子にシンジと並んで座った。 あの日、二人は結婚式に出ていたんだから、加持さんだって、ミサトと並んで座るくらいのことはしたはずだ。 ここで3分間ほど話でもして、シンジを独りで自分の部屋に戻す。 すると、待機しているヒカリが、シンジからラベンダーの香りがするかどうか判定する、という段取りだ。 この方法なら、わたし自身が発する香りが混じってしまう心配はない。

シンジと二人で話をするのは、あの日以来。 お互いに避けていたように思う。 でも、逃げてばかりいるのはわたしの性に合わない。 決着を着けておきたかった。

一通り段取りを説明してから、切り出した。
「それから、この前の話だけど」
シンジは、それまで普通に話していたのに、急にそっぽを向いた。 わたしだって、できればやめたい。でも、もう、もやもやしたくなかった。
「あんた、あたしとキスしたかったんじゃなかったの?」
「そんなことないよ」
「へー。寝てる隙にこっそりしようとするくらいだから、さぞかし喜ぶだろうと思ったのに。 案外反応薄いのね」
「いいだろ、別に」
「サービスしてやったのに」
シンジは、一度こっちを睨んだけど、すぐにそっぽを向いた。
「うれしいわけないだろ、僕のこと好きでもないクセに」
「ふうん。・・・それじゃ、あんたのファースト・キス、台無しね」
すると、今度はあたしを睨んだまま、
「アスカだって初めてだったクセに」
と静かに言った。 そう、その通り。 なんだ、分かってんじゃん。
「時間よ。ヒカリんとこ行ってきて」
シンジはふくれっ面のまま、立ち上がってキッチンを出て行った。

この話を、そういうふうにしたかったわけではなかった。 でも、シンジとうまく話せないのはいつものことだ。 言葉は通じているのに、気持ちが通じない。

たぶん、すぐにラベンダーの香りが検出されて、調査終了となると思っていたのだが、 戻ってきたシンジに結果を聞くと、検出されなかったそうだ。 判定にはけっこう時間がかかっていた。 マジメなヒカリのことだから、念入りにチェックしただろう。 それで出ないのなら、本当に移り香していないと考える他ない。

しかし、さっきまでむくれていたはずなのに、今はずいぶん神妙な顔をしている。 どうかしたの、って聞いてみると。
「洞木さんがさ、すごくマジメな顔で、ぼくの身体のあちこち、くんくん嗅ぐんだよね」
「何よあんた、やらしいこと考えてんじゃないでしょうね?」
「違うよ! そうじゃなくって! 洞木さんだって、ほんとはそんなことしたくないはずだろ? イヤに決まってるよ、そんなの。それなのにさ、すごく一生懸命なんだよ。 あんまり詳しく聞いてないけど、これ、アスカにとっては、とても大事なコトなんだろ? だからなんだろ? 洞木さんも、なんか、そんなこと、言ってたし・・・。 だから、僕も、・・・ちゃんとやんなくちゃ、って思ってさ」
「そう。悪いわね」
「さっき、ごめん」
「いいわよ。ありがと」
大事なコト、か。 大事なコトなんだろうか。

場所をリビングに変えて、シンジと腕をからめる。 香水は、運動による体温と脈拍の上昇や、発汗でも蒸散するので、その状態で歩き回ってみることにしていた。

あの日、ミサトは加持さんと一緒に帰ってきていた。 酔っ払ってたんだから、腕くらい組んでいただろう。

わたしも、以前には、加持さんと手をつないで歩いたこともあった。 でも、そう思っていたのはわたしだけで、 加持さんの方は、幼いわたしの手を引いて歩いてくれていただけだったのだろう。 わたしの歩幅に合わせ、ゆっくり歩いてくれてたんだと思う。 わたしは、一生懸命、ついていった。

今は、加持さんと腕を組んで歩いても、歩く速さが違い過ぎるということはない。 これからも、わたしが成長するに連れ、加持さんに追いついていくのだろう。 寂しいけれど。

今、わたしとシンジの歩幅はほとんど同じ。 背丈もそんなに変わらないんだから当たり前だ。 前を向いて、シンジと同じ方へ歩いていく。 シンジの後をついていくのでもなければ、シンジがわたしについてくるのでもない。 合わせるつもりがなくても、自然に歩みが揃う。

先に口を開いたのはシンジだった。

「ユニゾンのとき、最初はこんなことやってたよね、そういえば」
「・・・あったわねー、そんなことも」

腕を組んではいなかったが、歩調を合わせる練習は確かにやった。 それが、ずいぶん前のことのように感じた。

「あんた、あのシークェンス、今でもできる?」
「うーん、自信ないけど、でも、2-3回やれば、思い出すと思う」
「ちょっと、楽しかったわね、あれ」
「うん。たいへんだったけどね」

今日、こんなふうに話せるとは、思ってなかった。

3分ほど歩き回った後、再びシンジを部屋に戻した。 今度はそれほど時間もかからずに結果が出た。 まだ検出されないそうだ。

ここから先はヒカリの提案の調査項目で、わたしはあまり気が進まないのだが、仕方ない。 シンジに、立ったまま後ろからハグさせた。

なんかしゃべんなさいよ、って言ったら、「いい匂いだね」って、今頃?
「違うよ、香水の匂いじゃなくてさ、アスカ、いい匂いするな、って・・・」
「どんな匂い?」
「え? それは、うまく説明できないけど・・・」

昔はよく、加持さんもそう言ってくれた。 「いい匂いだな、アスカは」って。 そういえば、ここのところ、さっぱりそんなセリフを聞いていない。

シンジがしゃべったときの振動が、わたしの背中に伝わってくる。 プラグの中みたいで、なんだかフシギな感じ。 わたしがしゃべったときの振動も、シンジに伝わっているのだろうか。

お腹の辺りに回されたシンジの腕に、香水の付いたわたしの手首を、押し付けてしまおうか。 気付かれないように、そっと。 そうすれば、たぶん、この調査はここで終わりになる。 もともと、ただの思い付きの、子供っぽい遊び。 科学的根拠があるわけでもない。 ヒカリと話してたら、なんだかもりあがっちゃったから、勢いだけでここまで進めてきてしまったけど、 どうしてもやらなくてはならないというわけではないのだ。

そうは思ったけど、でも、できなかった。

気が付いたら、もう5分も過ぎていた。 ぼーっとしていたらしい。 慌ててシンジを部屋に戻したが、これでも検出されない。 なかなか移らないものだ。 いや、たぶん、なかなか移らないように作られているのだろう。

ヒカリとの打ち合わせでは、次の調査項目で最後だ。

シンジにおぶさった。

「意外と、軽いんだね」
「お世辞言ったって何も出ないわよ」

意外と力があることに気付いた。 たぶん、シンジの背中がわたしの身体に不必要に触らないように、ということなのだろうが、 いくぶん前かがみの姿勢で支えてくれている。 あまり楽な姿勢ではないはずだ。

でも、シンジは、何でもないふうで、「ぼくにも子供ができたら、こんなことするのかな」なんて言ってる。 そうね、あんたは、たぶん、そうすると思う。

あれは確か、3年くらい前のことだったか、加持さんに甘えておんぶしてもらったことがあった。 タバコくさい背中だった。 わたしの髪も、しばらくタバコくさくって、それが香るたびにうれしかった。

シンジの髪は、微かに汗の匂いがするだけだった。

「でも、ちょっと、緊張するね、えへへ・・・」だって。 本当に、楽しそうな声だ。本当に、楽しいんだろうか。

信じていいんだろうか。

シンジの背中は、ちっちゃかった。 たぶん、加持さんの背中も、今では小さく感じるんだろう。 タバコの移り香も、もう、うれしいとは思えないんだろう。

わたしが加持さんの思い出を反芻している間、シンジはずっと、黙っていてくれた。

顔を上げ、バルコニーの向こうに広がる空を眺めると、日が落ち始めていた。 そのバルコニーに出るガラス戸に、わたしを背負っているシンジの姿が映っている。 ガラスに映っているその二人は、とても仲が良さそうだった。

ガラスの中のシンジと、目が合った。
「アスカは僕のことキライなんだと思ってた」
「キライかもよ?」
「そんなふうに見えないよ」
「あはは。・・・でも、ときどき頭に来るわよ」
「そうなの?」
「そ。あんたがバカだから」
「・・・良く分かんないや」
「うん。あたしも良く分かんない。でも、好きかキライか、どっちかでなきゃダメ? 好きじゃなかったら、仲良くしちゃいけない? 好きだったら、怒っちゃいけない?」
「そっか。・・・ううん、そんなことないよね」
「あんた、自分の気持ちは言わないのね」
「え? ・・・ごめん」
「何が?」
「アスカだって、初めてだったのに、台無しで、」
「そういうのは謝んないの。分かってないわねぇ」
「あのさ、」
「ん?」
「僕も、アスカと仲直りしたかった」
だったら、そう言えばいいのに。 指で背中に、バカ、って書いたら、シンジが、クスッ、と笑った。 分かっちゃったか。

そう、バカなのは、わたしも同じ。

しかし、シンジは確かに、「僕も」と言った。 なるほど。 ヒカリが、わたしがシンジと仲直りしたがっている、とか何とか、そんなことを言ったのだろう。

二人でガラスに映る自画像を見ながら、ふざけて、シンジの右の頬を、人差し指で突っついた。
「痛くないよ」
子供みたいなことを言う。
「痛くして欲しい?」
「やめてよ」
我が事ながら、バカみたいだ。 それなのに、二人とも、とても楽しそうに映っている。

わたしとシンジは、他の人からは、こんなふうに見えているのか。 ヒカリが一生懸命になるわけだ。

加持さんと一緒にいるとき、わたしはどんなふうに見えているのだろう。 加持さんはどんなふうなんだろう。

自画像の中のわたしの笑顔が曇ったのと、それを見たシンジの顔が心配そうに変わっていくのが見えた。
「だいじょぶ?」
「何が?」
「だって、悲しそうだから、」
「あたしならだいじょぶよ。それより、時間だから、行ってきて」

7分間もそうしていたらしい。 ヒカリをずいぶん待たせちゃったかな。

戻ってきたシンジが言うには、ようやく、微かなラベンダーの香りが検出されたそうだ。 それが本当なのかどうか、今となっては疑わしいが。

でも、別にそのことを確かめたかったわけではない。 加持さんの気持ちが今どこにあるかくらい、気が付いていなかったわけではないのだから。 ただ、そのことをちゃんと考える勇気がなかっただけ。 わたしは、目も耳も塞いだ、蛹だった。 幼虫のときに見た、ステキな色の蝶の記憶を大事に抱えたまま、固い皮の内側で眠り続けている。

わたしは、わたしの心の中の加持さんに、わたしの初恋に、そろそろさようならをしなくてはならないらしい。 いつまでも、「あたし、お父さんのお嫁さんになる!」などと言っていてはいけないのだ。 もう、羽化しなくてはならない時期なのだろう。 だけど、独りでうまくできるだろうか。

「僕、次は、どうしたらいい?」
「うん。ちょっと、動かないでて」

予定にはなかったけど、両腕を腋から差し込むようにして、正面からハグした。 シンジは、手のやり場を決めかねているようだった。 構わず、頬を寄せた。 触れ合った頬の間を、わたしの目からこぼれた涙が一筋、走り抜けた。
「泣いてるの?」
あんたのせいよ、って言おうとしたのだが、口を開いて出てきたのは、くぐもった嗚咽だけだった。 シンジが、両腕をわたしの背中に回して、ぎゅっ、ってした。

そっか。やっぱりこの前は、いきなりキスなんかしたからいけなかったんだ。

加持さんはこんなふうにしてくれたことはなかった。 わたしがいくら頼んだって、キスしてくれたこともなかった。 こんな気持ちになったこともなかった。

加持さんの気持ちを思い遣ったこともなかった。 ただ、ひたすら、わたしを好きになって欲しかっただけだった。

シンジの部屋を出たヒカリが、「アスカ、あたし、もう、いいんでしょ?」って言いながら、廊下から姿を見せた。 ところが、わたしたちの姿に気がつくと、 「あれ? わたし、ちゃんと薬飲んだのに、何故透明人間になってないんだろう?」とでも言うように、 下を向いて自分の姿を見回した後、無言で来た方に戻ってしまった。

ごめんね、ヒカリ。

おかげで、落ち着いた。

「洞木さんに、見られちゃったかな・・・」
シンジがしゃべると、あたしのほっぺたが動く。
「見られたらイヤなわけ?」
おかえし。
「アスカが困るんじゃない?」
「そうね。あんた、ごまかせる?」
「・・・分かった。やってみる」
ムリだと思う。 でも、ムリしてくれるらしい。

8分間そうしていたようだ。今度はしっかり検出されたらしい。 ヒカリがシンジを叱咤する声が聞こえてきた。 シンジが何やら受け応えしているようだが、それは良く聞こえなかった。 ただ、ヒカリが心から納得する返答ではないようだった。

何を話したのか、後で聞いてみよう。 もう少し、シンジと話をしよう。

翅が乾くまで、少し、時間がかかるかもしれないが。

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