湖東 三上山'10.11.30 晴のち曇

JR野洲駅-表道-三上山-裏道-御神神社-JR野洲駅

 琵琶湖の東の平野に三角錐の美しい形から近江富士と呼ばれて親しまれている三上山(432m)は新幹線、名神高速道などどこから見てもアッ、近江富士だ!と声の出る山です。そんな里山にしばらくぶりに登ってみました。

 

 この山は低山ですが、山麓にある御神神社が祀られており、山頂にある奥宮とは一体の存在の神体山として遠い昔より麓の人達に崇められてきました。
 また、俵藤太秀郷の「むかで退治」伝説でもよく知られている山でもあります。

国道8号線「三上」を左折するとすぐに三上山表道の標識、この灯篭を左折し登山口は正面金網より

 登山道は岩が多くありますがよく整備されて危険な箇所はなく普通40~50分で登れます。最も登山口から5分ほどで廃墟が痛々しく、これは何とかならないのだろうか?と考えてしまいました。

 それにその上の妙見堂跡にも廃墟があったようですが、こちらは潰れたままで放置されていますが、枯れ草に隠れて知らなければ見に入らないかぎり見えません。
 でもその前の広場には灯篭と紅葉がきれいな景色で気を紛らわせてくれました。 

タカノツメの黄葉 カスミザクラの古木は満開時に見たい!

 妙見堂跡からすぐで二越のチャートの岩塊群です。チャートとはウィキペディアによると、堆積岩の一種。主成分は石英で、この成分を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片が海底に堆積してできた岩石と説明されています。 

 今度は割岩の出現です。大きな岩が真っ二つに割れています。この間をすり抜けられるかな?・・・っと試してみました。ザックが邪魔そうで、すぐに取り外して身ひとつで横向きに何とかすり抜けました。

 そしてこの岩塊に着生していたシダの仲間のヒトツバはこれから山頂まであちこちで見られました。すなわちこのヒトツバの特性は岩場に特に分布するのが特徴なのです。つまり三上山上部は特に岩の多い山であるといえます。

 そして岩や木の根などの道を上がっていくとパッと南西よりが開けて山並みが見えるようになりました。

千頭岳、音羽山から右にポンポン山、小塩山も 比叡山に横高山、水井山も

 そして岩場の展望台到着でも同じように大展望が続きました。その上すぐに御神神社の奥宮が祀られており山頂はベンチの設置があるものの樹林の中で展望はききません。
 また、登山道は山頂から東に近江富士花緑公園へ、西南に裏道、そして登ってきた西への表道が降りていますが、私はとりあえずすぐ下の展望台に降りて岩の上に座り、南から西にかけての展望を楽しみながら昼食(11:42~12:10)としました。

 下山は裏道を行きます。タカノツメやヤマモミジの黄葉、紅葉もわずかに残っています。そして苔ケ谷から東への希望が丘文化公園に近江富士花緑公園と桜池その上の奥の山は鏡山でしょう。
 そして登山道沿いには小さな竜王の祠が祀ってありました。これらを見て植林帯のやや薄暗い道でしたがタカノツメばかりの黄葉が特に目立ちました。。

タカノツメの黄葉 ヤマモミジの紅葉
桜池を挟んで左が希望が丘、右花緑公園 竜王の祠

 さらに下ると「姥の懐から山頂へ中級・上級」との標示を見つけ急な坂道を5分ほど登って見てきました。

 なお、ここの登山道にはシダ植物ではヒトツバにベニシダ、トウゴクシダの説明板が置いてありましたが、他にも姥の懐あたりでチャセンシダも見つけました。
 さらに説明板でありがたかったのはヒメユズリハ、アオハダ、ヤマザクラ、ウワミズザクラなど、葉が全くなく丸坊主の今の時期ではなかなか同定がすぐにはできかねない樹種のために助かりました。

チャセンシダ左は葉表、右は葉裏の胞子の様子

 そしてネジキの紅葉も見て、鞍部の打越は四差路ですが直進してわずか5分も登ると小さなピークの女山でした。
 その山頂は何の標示もなく展望も利かないためすぐに引き返して打越を左折で裏道を下り、表道へ通じる三差路から下山口で駐車場のある天保一揆で有名となった天保義民碑に出ることにしました。

 この場所もモミジの紅葉がまだ残ってすばらしく、観光客も見えていましたがここは何はさておいても「天保義民碑」の話でしょう。その碑は右側のモミジの中の広場に立てられています。

 天保の熱(ホトオリ)

168年後の今でも、自らの命をかけて郷土を守ろうとした勇気ある献身的な行為は、天保義民として遺徳を偲び、その心を後世に伝え、毎年十月十五日にこの場所で天保義民祭が行われている。

   人のため 身は罪とがに近江路を 別れて急ぐ 死出の旅立ち   土川平兵衛 辞世の句                                                     

 『天保一揆のあらまし』

 天保十三年(1842年)時の幕府役人(市野茂三郎)が尺に176cmを182cmの目盛りにして不正検地により年貢増収を図ろうとしたことに、この地域一帯の数万人の農民が三上村庄屋土川平兵衛を指導者として立ち上がったものであり、結果は幕府役人に検地を十万日日延べする証文を取って一揆は勝利したのであります。
 しかし首謀者土川平兵衛他十名は江戸へ送られ、過酷な拷問のあと獄死したとのことです。

(以上同地にある看板の内容) 

 その後、私は天保義民の代表者である三上村庄屋 土川平兵衛の子孫が今も健在なようでその生家も見てきました。

 そして天皇即位時にとり行われる大嘗祭のお田植え地であった「悠紀齋田」も見物し、最後は御神神社へもお参りしてきました。

天保義民碑の案内も目立つ場所にあり 昭和の悠紀齋田=天皇即位時の大嘗祭地
御神神社山門 本殿=鎌倉時代建立と推定される国宝

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