雪の金閣寺'11.1.17 曇

 久しぶりに雪化粧の金閣寺を訪ねることができました。美の極致とはこの光景でしょうか・・うっとり2時間も林養賢と金閣炎上のことを考えたり、ぼんやりしながらいろいろ思いをつのらせながら時を過しました。。

 さて、その金閣寺といえば60年ほど前に炎上してしまったことによる小説があまりにも有名ですが、私は水上勉の『金閣炎上』がとりわけお気に入りでこれまで何度も読んでいます。

 それは「天を焦がす金色の焔に、彼は何を見たのか?、身も心もぼろぼろになって死んだ金閣放火僧の痛切な魂の叫びを克明に刻む長編小説」として新潮文庫から刊行されたものです。

 というより私は水上文学にのめりこんでいるといっても過言ではありません。生存中には氏の講演会にも出かけたりサインもいただいたりしました。
 『金閣炎上』は水上文学の中で最高傑作であろうとひとり悦にいっています。今回はこの小説をたどりながらいろいろ話を進めてみたいと思います〜

鏡湖池より衣笠山を借景に金閣寺
1層寝殿造の法水院、2層武家造で潮音洞、3層禅宗仏殿造で究竟頂

 お釈迦様のお骨をまつった舎利殿「金閣」が特に有名なため、金閣寺とよばれていますが、正しくは「鹿苑寺」と言い、臨済宗相国寺派の禅寺です。(1994年、世界文化遺産に登録されました。)パンフより

 水上勉の『金閣炎上』によりますと、「昭和25年7月2日午前3時ちょっと前ごろ金閣から火が出た。」とあります。もう60年も前の実話なんですね。

 その後の世に大きく残る大事をしでかしてしまったのは、とてもそのような大それた行動が出来るような人ではなかったと、彼の出生の地の若狭でわずか22戸しかない寒村の成生部落の人達がいう金閣寺の小僧であった林養賢という青年の放火でありました。

 この『金閣炎上』の長編は事件がおきてから20年越しに成ったもののようです。水上勉は「私は林養賢君と縁も深かったし、在所も近かったので、彼がなぜ金閣に放火したのか、そのことをつきつめて考えてみたかった。」とあとがきでも述べています。

 

 その放火動機について時の報道では「学生僧は異常性格か」「住職への逆恨みか」「社会への限りない劣等感」「放火は積年の計画」「地で行った諸行無上」「英雄気取りの性格破産者」などなど、果たして林養賢の真意や如何にですが、逮えられた後、最後は父親と同じ肺病と極度の精神障害にて宇治の府立洛南病院で昭和31年3月7日午前11時10分に死亡したとあります。

 放火の日の最後に林と碁を3番打った和尚の江上大量師は結局、「彼は精薄なんぞじゃありません。父親からもらってしまった肺病で、あの当時死にたかったんやと思うとります。」と水上に答えています。

 その後金閣寺の今は↓の画像のように観光客でごったがえしています。中にはきのう都大路を駆け抜けた女子マラのランナー達の姿もありました。

 そして水上は養賢と母親志満子の二人の墓探しを執念深く長年行い、そのお陰で遂に発見したのです。それは青葉山麓の安岡部落の共同墓地にあったようです。安岡は林養賢の父道源の実家の部落だったのです。

 水上は最後に「村人に聞いてみると、母子の墓には、僧形の墓参者はひとりとてないとのことだった。」と結んでいますが、さて、水上勉は林養賢がなぜ金閣寺に火をつけたのか、その動機についてはっきりふれていないように思うのは私だけでしょうか・・ 

昭和62年秋、漆の塗替、金箔の張替 中国で目出度いという「鳳凰」が輝く
夕佳亭は江戸時代の数寄屋造りりの茶席で南天の床柱、萩の違棚、鶯宿梅の古木が有名です。

 舎利殿の見物を終えて順路にしたがい夕佳亭まで上がると、西側に最後の金閣が衣笠山を従えて見送ってくれます。
 そばの土産物屋も寒そうでしたが、品を求めて人は途切れません。 

 観光を終えると11時半にもなってしまいました。最後はあの林養賢が昭和25年7月3日午後4時ころ放火の後に金閣寺の「庭つづきにせりあがっている山、通称左大文字山の盆行事に火を焚くあたりで林がうずくまっていた。」と描写されている火床を見上げると薄っすらと白くなっているのがなにか悲しく哀れに見えました。

大文字山への登山口は修道院の坂道を上げればすぐですが、今では許可がないと登れません。

 それにしても林養賢なる人物をどのように思考すればいいのか、もちろん私にも読めない部分が多々ありすぎます。
 でも水上勉ファンとしてこれだけは、なしたいと思ってはいます。あの風景の思い出がちらちらする、私の生まれ育った但馬によく似た単線の小浜線の走るあの地へ、養賢と母親志満子の二人の墓参に出かけてみよう。と
 そしてその足で青葉山にもまた登って、いや何度でも登って金閣寺と林養賢について考え続けていくのも悪くはないなと思います。

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