比叡 松尾坂から西山と大比叡 ’15.10.21 晴のち曇り

 八瀬ケーブル駅横-松尾坂-西山-西塔P-鎮護国家碑-大比叡-比叡山ケーブル駅-紀貫之墳墓-無動寺道-JR坂本駅

 青空はなかったが雨は0%とのことで、比叡山の古寺巡礼としゃれこんだ。八瀬ケーブルの八瀬駅前でバスを降りて、目の前の橋からのスタート(9:05)であった。駅横の平八茶屋の看板前から細い車道は、「八瀬野外保育センター」への坂道を上がるのだが、5分もすると左への地道に入る。ここからがいよいよ松尾坂の山道の始まりだ。この松尾坂は比叡山西塔へ続く古道である。今回は松尾坂から鎮護国家の碑までを中心にレポしてみよう。


この分岐を左へとろう

 この付近は最近工事で道路の拡幅がなされているようだ。以前の小さな木製の橋は消えて鉄板が敷かれており、すぐに京都精華女子中学高校のグランドの管理棟が見えてきた。どうやらサッカーのグランドのようだ。この上を金網沿いに前進すると、こんどはドコモの電波塔設備が左手に出てきた。

 これらの比較的新しい人工物が終わりになると、すぐに大木で古木モミノキが立っていたが相当な年代ものだろう。いよいよ山道が急な登りとなってきた。そして古道らしく深い堀切の道には小石が散らばり、あまり歩きやすくはない。それでもスタートより半時間も歩けば、ほどなく左側斜面にがぽつんと立っていたのが浄刹結界趾の石碑だ。
 事前ネットで松尾坂のページを調べていたのがこれだなと石碑に触れてみた。ネット情報には次のような説明だった。どうやら「この浄刹結界は、比叡山の境界線で、かつてはここから先には女人の入山が禁じられていたようだ。この石碑は裏面に大正10年(1921)3月に建てられた。」とある。

 
浄刹結界趾の石碑

 その次には浄刹結界趾の石碑から5~6分で今度は石の地蔵が祀られている。先のネット情報だと、「石の地蔵は、聖徳太子の旧跡といわれる斧堂の跡地で、斧堂はかつて和労堂と称され、和労堂は比叡山の山道の各所にあって、おそらくは山道で疲れた人の休憩施設であった。」のだろう。また、別の情報では聖徳太子が比叡入山のときに持参した斧をここに納めたとも謂われている。
 ここは地形図上に表記あるP414地だが、建造物はなく太子自刻との伝承がある石の地蔵だけだったが、今回まず最初の手を合わせて頭を垂れることにした箇所だった。道はこれより二手にあるがすぐ先10mほどで合流するが今は左道が本線のような踏み跡だ。

 
P414に石の地蔵が祀られ

 その後の道は足にやさしい歩きやすいルンルンなハイキング道になってくれだした。すると崩れかけた石崖積みが見え、奥を覗くと丸っぽい炭焼き釜跡のようなものが残っていた。先のネット情報によれば「経塚なのか墓所なのか」とあり、確たる情報はなさそうだ。

 そしてまもなく標高550mあたりまで登って来たが、ここが西山峠だろう。石の地蔵が散らばっている。ここでも手を合わせて山旅の安全を祈ろう。さぁ、これより北へ左折して西山へ行ってみよう。進めばすぐに多数の卵塔群が並んでいた。要するにお坊さんの墓地のようだ。
 なお、卵塔は無縫塔とも呼ばれ主に僧侶の墓塔として使われる石塔らしい。この北向きの尾根を更に進めば一番高みでここが559mの西山だろうと見れば、やっぱり枯れ木の上にビニールテープが巻きつけられ、「西山559m」と記されていた。

     
標示物はないが、 ここが西山峠だろう この稜線には 多数の卵塔群あり  西山 P559mの標示

 引き返して西山峠から東へ急坂を降れば、すぐに沢音が聞こえてきて左へカーブし、手前方向には通行止めの鉄筋が組まれているのが見えてきた。鞍部の谷では元気に清らかな沢水が流れ落ちていたが顔を洗うと気持ちよかった。手前の停止棒の奥は土砂崩れがハッキリし、あれでは作業車は無理だなと一目で分かるくらいひどい状態だった。

 
左への谷には土砂崩れで通行止め

 この谷の林道周囲には多くのオオバアサガラが林立している。少し歩けば今度はアワブキがまだまだ青い葉を広げていたが、そばには赤い実のカナクギノキや紅葉しかけたアブラチャンもあった。これなら、この一帯にはいろいろな樹木花が楽しめそうだ。よし、来春の5月中旬あたりの花時には足を運ぶことにしたいナとすぐ思ってしまった。

     
アワブキ(アワブキ科)   カナクギノキ(クスノキ科)  アブラチャン(クスノキ科)

 林道をすこしで目の前が明るくなってきた。空は青く登って振り返れば先ほどいた西山峠もはっきりと見えた。一挙に視界が広がってきたとはこのことだ。それは歩き始めてからここまで、ずっと樹林の中ばかりだったので霞んでいても空が見えれば万々歳だ。
 そして北向きの遠い山並みが広く見えてきたのだ。近くの横高に水井山はハッキリと見え、その左下には大原三山を従えた大原の里だろう。ほんとうに山の中の一握りの里のようだった。さらに奥の山並みの中には花背のドコモ鉄塔が温かすぎて霞が強く薄らとしか見えなかった。それに先日歩いた花折峠からのP812あたりもぼんやりとなんとか見えるような感じだった。さすがに比良山系はダメだったが、そばにはリョウブが下の方は独特な色合いの飴色に紅葉し、上部の方はきれいに赤く紅葉が見られた。

 

 やがて、道は三叉路が出てきたが、まずは左へとって奥比叡ドライブウェイを横切り、西塔の駐車場でトイレ休憩(10:45~52)とさせてもらった。ここには奥比叡八重の桜で名がある紅葉した美しさを期待して立ち寄ってみたのだ。今回はこのPから釈迦堂方面には入らず、先ほどの三叉路へ戻って左への道にとって行こう。途中にはいくつかの地蔵さんや石碑が立っている。中には元三大師霊場の案内やここにも昭和五年十月文部大臣指定の史蹟天然記念物比叡山鳥類繁殖地の碑が二つならんで立っていた。

     
 松尾坂のほぼ終わりの三叉路  西塔の駐車場にある奥比叡の八重の桜  左元三大師霊場、右鳥類繁殖地の碑

 そして石碑のそばにはまだアザミの花が咲き、おっ、オハラメアザミかなと近寄ればどうやらヨシノアザミのようだった。それに鹿にだろうか、食いちぎられた刺の多くつく葉も痛々しく目についた。さて、オハラメ・・とヨシノ・・の同定ポイントは、前者は全体が大型で大きいものは2mにもなるが小花は小さく、総苞片は11~12列と多いので細長く見える。また後者のヨシノアザミは全体的に中型で、頭花を下向きに咲かせることが多く、総苞片が8−9列あるアザミだが、そうはいってもアザミの種類は多く、なかなか見分けは容易ではないだろう。でもヨシノアザミの残花が見られてうれしい気分となった。

     
 ヨシノアザミは奈良吉野ではなく発見者の名  全体像のヨシノアザミ  これだけの刺なのに葉先が食べられていた。

 やがて、「鎮護国家」の石碑座る地(11:05)に飛び出した。この「鎮護国家」の石碑だが、裏側の碑銘によると、昭和5年(1930)に建てられたもののようで、この石碑は不変随縁而二門の旧跡に建てられたといわれているが、そもそも、かつて延暦寺は、京都御所の鬼門 に位置する寺院として、鎮護国家の道場としての役割を担っていたことによるその碑なのだ。そしてすぐこの奥には東塔西谷の墓所もあり、古の様子を偲ばせていた。

     
日陰で暗いが右に鎮護国家の石碑座る     石碑奥にはお坊さんの卵塔群がここにも

 さて、この「鎮護国家」の石碑前の道は、八瀬ケーブルで上って来た観光客の方の中で、ちょっとハイクで歩こうと思う程度の人たちが、この道から西塔方面へ向かうのではなく、東塔の根本中道へ向かう一般ルートのようだ。しかし、松尾坂からここへ合流した我が足は、左周りで大比叡に向かおう。ここまでは誰にも会わない静かな道ばかりだったのだが、さすがに一般ルートで京都一周トレイル北山5の道標も立つ、この通りはいつも歩く見慣れた道だが、人の姿がにわかに出てきた。

 この後は比叡山の受付の係りの方へ「大比叡に登らせてもらいます。」と断って阿弥陀堂裏側から階段を登り、大木杉に触って元気をもらい、三叉路の「智証大師御廟従是東半町」の道しるべを左に見て、ここを反対の右の西方向へ緩やかに登って行こう。すぐでNTT中継所横のウリハダカエデ並木は黄葉が始まったところで、読売に、朝日、関西TVの中継所を過ぎると大きな水道施設があって、すぐに大比叡だ。

 その直下にはムラサキシキブのあるのも知っている。その木がまだ葉をつけたまま紫色の鮮やかな実をさげていたのも見逃さすに写真を撮っていた。するときれいな御嬢さん二人の観光客が山頂の上から降りてそばを水道設備の方へと過ぎていった。明るい感じで元気に挨拶する二人だが、それにしても両者ともとびきり美人だったが、その格好でよくもガーデンミュージアムからこの山頂までやってきたものだと、あっぱれなことだと感心しきりだった。どうやらNTT中継所前から左への周回ルートでバス停へ戻るような口ぶりだった。

 
ムラサキシキブ(クマツヅラ科)

 大きな18cm角の1等三角点にタッチで挨拶、ここで昼(11:35~55)としよう。いつものことだが、ここは檜の樹林の中のために展望はないが静かでありがたい。20分ほどで腰をあげようとすれば、そこへアベック二人が下を通り過ぎそうにしているのが見える。そしてバス停方向へ進みかけている。こちらの姿も見えているのに挨拶の声も出ないし聞こうともしない。さらに山頂すら分からないのか歩こうとしている。やっ、これは初心者で山頂すら分からないのだなとみて、こちらから「山頂はこちらですヨ、上がらないのですか・・?」と声をかけると、後を歩く女性の方が元気な声で「アッ、そうですか、そこでしたか、分からなくてもっと先かなと思って・・」という始末だ。


大比叡山頂は樹林の中

 こちらは、これはアカン!、と急いでアベックに邪魔してはいかんだろうと、我が道を降りていこう。あの様子では男の子が先頭を歩いていたが、この後の山歩きも大丈夫だろうかと、いらぬお節介ながら心配する始末であった。でも、挨拶もできない男の子らの他人様の様子にはほどほどにして、こちらは坂本へ下山としよう。

 するとまたNTT無線中継所あたりで、今度は元気のよい山ガール3人組がやってきた。こちらは装備といい態度といい山は少し歩きだしておもしろい時期のように見えた。聞けば「比叡山高校グランドから登ってきた。」とのことだった。さらに降りて行けば夫婦らしき高年者に、単独の中年一人にも出会ったが挨拶だけにし、その他の言葉は交わさなかった。
 こちらはやれやれ、山頂を早く腰上げてよかったなとの思いで智証大師の道しるべを御廟方向へ進むのだった。それにしても立て続けに若者が平日だというのに出会ったのだが、人それぞれ、登山者も人それぞれの感がおもしろかった。

 我が進むこの後は何度も歩く道なのだからそんなに感動感は多くない。坂本ケーブル延暦寺駅の無動寺谷降り口付近には10人近くの若きお坊さんが喋りこんでいたのも珍しい。その横を谷とは反対にやや道悪なケーブル駅すぐあたりを注意して裳立駅付近まで降り、すぐに藻立山キャンプ場跡であったが、そこのカエデの紅葉は日当たりが良すぎてもう終わりかけていた。その後5分で紀貫之墳墓だが、一昨年南国市からこの墳墓の管理にやってきたとの記念の白いポールが立っていた。

 墳墓から南へ降りると無動寺道へと突き当たる。ここは丁度比叡山の荒行、千日回峰行といって、無動寺谷の明王堂で、断食断水、不眠不臥の「堂入り」の行に入っていたお堂へつながる道が↓画像の左側から登る道なのだ。その千日回峰行者の41歳の釜掘浩元さんが無事に本日21日未明に満行したことがニュースになった日であった。

 
  左が無動寺谷道、右の紀貫之墳墓から降りてきた。

 実はこの情報はこの日に帰宅後の夕刊で知ったのだが、このような記念すべき日の前日から本日午前2時ころまでの早朝に600人からの信者の方たちが明王堂付近に集まったとのことだった。来年は左京区の赤山禅院まで足を延ばして回峰する「赤山苦行」となるらしいので、あやかるためにも赤山禅院方面の道も歩きたいものと思いながら、松ノ馬場方向からJR坂本駅(14:35~44)まで歩いた。それにしても暑い一日であった。
 たまたまだったが、千日回峰行の荒行の堂入りの満行日と同じ日に、無動寺谷道を歩いたのは何かの縁であると幸せに感じた。だが、堂入りの満行は8年ぶりで、この荒行の満行によって「戦後13人目となる阿闍梨」が誕生したのだと報じていたのも忘れられない1ページとなることだろう。

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