京都北山 広沢の池から京見峠、菖蒲谷池 ’15.12.20 晴

福王寺-広沢ノ池-大覚寺-直指庵-京見峠-菖蒲谷池-高雄-錦雲渓-清滝-鳥居本-護法堂弁才天-野宮神社-嵐山 

 暮れにはいって、今日の空はまさに日本晴れとなってくれるようで、喜び勇んでお出かけにしよう。以前に住まう処からの歩き初めである。一条通り道は昔のままの狭き街道であった。行きかう車軍に追いやられるように道路の端っこを小さくなって歩こう。

 やがて暮れの鯉揚げで池の水はぬかれてほとんどない広沢の池が目の前に飛び込んできた。あたりはさぞかし、古の頃には大宮人が観月のために盛んにこの嵯峨の地を訪れ、池の北側よりぽっこりとした頭をもたげる遍照寺山が覗きこむように池を見下ろすなどの一帯の清景を楽しんでいたことだろうと思いを馳せながら、山好きとしての我が心は正面の愛宕山塊に釘づけとなるのだった。

 でもやっぱり、年末のこの時期の広沢の池についてもう少し綴ってみよう。京の冬の風物詩のひとつともいわれる鯉揚げである。その鯉揚げは、嵯峨にある周囲1kほどの人工池の広沢の池で、毎年12月上旬に池の水を抜いて底に溜まった泥も流し、春から放流し大きくなった鯉や鮒を網ですくい揚げ、その場でも販売される冬の行事である。ちなみに広沢の池は真言宗御室派の寺院である遍照寺の創建時に、庭池として造営されたといわれている。

 さらに、嵯峨天皇など多くの高貴な方達が都から、嵯峨離宮ともいわれていた大覚寺へ通われた道として、歌にもある千代の古道へ進んで大覚寺門前であった。この門前はお休み処でもあってありがたい。そして、大覚寺の西側を北へ歩き、まずは直指庵へ向かおう。

 さて、直指庵の歴史だが、江戸時代の1646年(正保3年)創建でその後荒廃したが、幕末に近衛家の老女村岡局(津崎矩子)が浄土宗の寺として再興したのが現在の直指庵とのことである。そして今日では、隠れた秋の紅葉の名所として知られているが、別に女性だけの駆け込み寺ではないと寺側はいい、男性の拝観や「想い出草」への書き込みも可能であるとPRしている。

 今回は直指庵への予定はしなかったので、せっせと山道を登って行こう。足元はスニーカーだが、急登が汗をかかせるも、すぐに峠に着いた。ここが見覚えのある京見峠だ。今日は右左の道ではなく、北側へ降って菖蒲谷の池だ。この道は梅ヶ畑にある菖蒲谷池に車でなら嵐山-高雄パークウェイで子供連れで遊んだものだ。だが、嵯峨野直指庵横の山道を京見峠を越えて山歩きをすると、自然豊かで景観も良いコースになり、歩いて来た広沢の池なども見下ろせた。

 すぐにその菖蒲谷池に降りてきた。さすがに快晴の日の池へは吊り人が盛況で、中には腰以上も水の中に入って糸を垂れている釣人も見られた。山歩きもそうだが、この寒いのに深い水中に身を沈める気がしれない。山人から言えた義理ではないだろうがと思っていれば、釣っているその本人から誰かが「ようやりまんなぁ~」との声に対し、「ほっといてくれ!~と言ってやったんだ。」と同僚と笑いながら話しているのが耳に届いた。さすがにこちらも水の中の釣り人の写真を撮ることには気がひけた。

 そして嵐山高雄パークウェイを横切り、高雄へのハイキング道を取ろう。 樹林の道をアップダウンしながらしばらく歩いた。すると目の前のトンネルあたりで珍しく先行者の姿が目に入った。真っ暗な短いトンネルをくぐれば高雄の集落に降り、そこには子安地蔵尊の石碑が立っていた。そして 周山街道を左へ行けば山城高雄バス停だが、すぐそこを左の階段へ下れば、神護寺の参道、そして錦雲渓へ歩こう。。

 錦雲渓への道は近年こう呼ぶ人も少なくなっているように思う。それより東海自然歩道と言ってるようだが、やっぱりせめて呼び名だけでも錦雲渓と言ってほしい。。でも、飽きるほど歩いておりレポは省略しよう。


 そして清滝から500mのトンネルを過ぎて愛宕念仏寺前についた。天台宗のお寺で愛宕山参道の山麓の入り口に位置する嵯峨野めぐりの始発点として知られる独特な呼び名で、正しく読める人は少ないだろう。おたぎねんぶつじと読むのだが、これは創建当時の東山辺りは愛宕郡(おたぎごおり)と呼ばれており、その地名が「愛宕寺(おたぎでら)」の寺名由来のようだ。そして醍醐天皇の命による復興で千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕寺から愛宕念仏寺へ改めたといわれている。

 この愛宕念仏寺は8世紀中頃、称徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建。平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていた古刹。しかし、その後も荒廃をかさね廃寺同然を、醍醐天皇の命により天台宗の寺として名を愛宕念仏寺と改め復興された。

 だがその後も興廃が続き、1922年それらのうちの仁王門・地蔵堂・本堂を移築して現在地での復興を目指すが失敗。あまりの荒れように、1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝も、引き受けるのをためらったという。それを清水寺貫主・大西良慶の激励により復興にとりかかったといわれる。
 爾来西村公朝住職は復興にこれ努めていったが、中でも、素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは1981年だった。当初は五百体が目標だったが、10年後には千二百体に達したように、いろいろな知恵と努力によっての復興となり、愛宕念仏寺の今は西村公朝住職なくしてあり得ない僧と一躍世に届いたことは有名な話しだ。


愛宕念仏寺の仁王門

 鳥居本には愛宕神社の一の鳥居が有名であるのだが、只今改築中でもあることから、今回はそばのお亀石を紹介しよう。注連縄をつけたこの岩は下のお亀石と呼ばれ、ネットでは次のような説明がある。

「下の亀石は藁葺きの鮎茶屋・平野屋の前に祀られている。この茶屋の前に注連縄を張った亀の甲羅のような石がある。これが亀石で、愛宕神社本殿傍らの青銅の鳥居にある亀石を上の亀石というのに対し、下の亀石という。役小角が置いたと伝えられる名石。何のために置かれたのか、今となってはよく分からないが、地元の人は、愛宕神社への参拝は急坂が続いて苦しいので、亀のようにゆっくり着実に登りなさいという寓意だという。」


下のお亀石


 すぐで嵯峨鳥居本伝統的建造物保存地区だ。最初は町並み保存館が見られる。外観だけでなく内部も見させていただく。おくどさんはレプリカであったが、井戸は今でも中で湧いているようだ。そして、もちろん現在も居住されている藁ぶき屋根の農家風民家や町屋風民家が、周囲の美しい自然景観を背景に京町家の家並みが見事に管理されいる。いろいろな京町家の種類、造りなども細かく見学させていただこう。

 
 伝統的建造物の家並み

 

         
 おくどさんと井戸  ぱったり床几  格子と駒寄せ  鍾馗さん  鍾馗さん


 


 この後には「将軍地蔵大菩薩」にもお詣りした。イエ、別に誰にも勝とうなどとは思ってはいませんが・・・?。なんだか勇ましい感じのネーミングでは・・。どうやら愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られたとのことである。

 本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えであるのだが、要するに簡単にいえば神の正体とされる仏を本地仏といい、愛宕権現の本地仏とされるのがこの勝軍地蔵であるのだ。


将軍地蔵大菩薩

 

 続いて、隠れた紅葉の名所として知る人ぞ知る「護法堂弁才天」についても訪ねてみた。もっとも創建、歴史等定かでないのが残念だ。今年の紅葉は終わったのだが、来年の下見としようくらいにのんきなものだ。だって、どなたかのブログでもこんなのが目についたのだから・・・

「嵯峨野の秋はめちゃ込みやけど、愛宕街道そばの「護法堂弁才天」さんは穴場中の穴場。大文字送り火「鳥居形」の曼荼羅山の麓の小さなお堂。「天女」 と書かれた鳥居をくぐると別世界が。すぐそばには瀬戸内寂聴さんの寂庵も。毎月1日は写経会もあって、寂聴さんにお会いできるかもとか・・。」、そうか曼荼羅山にもまた登りたいな!


天女と扁額かかる護法堂弁才天の鳥居

 と、全くの観光巡りとなってしまったのだが、最後は黒木鳥居として知られる野宮神社の鳥居だ。黒木鳥居とはクヌギの樹皮のついたままの原木を使ったもので日本最古の鳥居様式といわれている。さらには鳥居の両袖に小柴垣を用い、源氏物語や謡曲和歌俳句などにもあって、黒木鳥居と小柴垣の遺風を残していると駒札にある。

 今回はハイクと観光のコラボで野宮神社を最後に、本日の観光トレックをフィンとし、中之島公園から愛宕山を眺めながら一休みして嵐山を後にした。

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