「西に金峰、東阿蘇…」熊高の関係者なら誰もが知っている校歌。この校歌にまつわる知られざるエピソードをご紹介します。戦後30年にわたり音楽の教鞭をとられた滝本先生の貴重な証言から戦後の校歌の特徴まで、メーリングリストで話題になった内容を中心に掲載します。

校歌はこうして作られた - 滝本先生の証言による戦後の校歌の秘密
熊中・熊高校歌物語 - 戦前・戦後の校歌の変遷
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 定年まで30年近く熊高にお世話になった小生。思い出は山のごとくですが、卒業生の皆様にも一番かかわりのある校歌についての想い出は忘れることができません。
 1952年熊高に赴任してまず初めての仕事は新入生の校歌指導というわけでしたが、創立当時校歌制定以来年数も経っていたため元の曲の楽譜も無く、当時の大西校長から職員の中に熊中の卒業生が三人居るのでその先生方から聞いて下さいとのことでした。私共の言葉(音楽用語)で申しますと聞き取り、採譜ということです。
 さて3人の先生方の歌は三人三様で、少しずつ節が異なるのです。その中一番それらしかったのが今は亡き小野崎先生でした。しかし音楽的にみて不自然な音の動きもあったので、私なりに決定版を作り、指導を始めました。
 しかし私が指導した校歌で卒業した連中が同窓会に参加して古い先輩達と校歌斉唱をしたところ、転々と合わない部分が出てきたのです。新入会員は、自分達は音楽の専門家から習ったのだから我々の校歌が正調だと云い張ったそうです。私の耳にもその話は伝わってきましたが、すでに数千人の卒業生が私流?の校歌で育ったのですからいまさら変更もできず、そのまま押し通す以外なかったのです。
 ところがここに思わぬ事件が起きました。図書館が白蟻にやられ改築されたときのことです。その図書館の地下から埃にまみれくにゃくにゃに曲った校歌のSPレコードが数百枚出でてきたのです。唖然としました。早速視聴しようと思っても再生する蓄音機がありません。あちこち捜しやっと見付けたのですが、波打ったレコードはかけられません。そこでお湯につけ石の重しをかけ、数日後やっと幻の校歌レコードを聴いたのです。何と似ても似つかぬほどのメロディが流れてきました。その頃すでに私の教えた校歌を歌った卒業生は数万人になっていました。もう引返しようもなく現在に至っているのです。
 同窓会に集まった卒業生のうち、私流の校歌を唄ったものは数の上でも圧倒的に多く、いわば正調の校歌になっています。私も県内外の小・中・高・大の学校の校歌を二百曲近く作曲しましたが、熊高の校歌には及びもつきません。卒業生の皆さん胸を張って名曲「西に金峯...」を高らかに唄って下さい。

出典:『校歌異聞』(江原会会報第25号・1997年7月1日発行より)

 

 本校の校歌は、明治43年(1910)に創立10周年を記念して作られた。作詞者は京都帝国大学講師池辺義象(いけべ・よしかた)である。彼は細川藩士池辺軍次の次男で文久元年(1861)に生まれた。明治15年(1882)東京帝国大学古典講習科に入学し、19年(1886)に卒業して宮内省図書属となり、23年(1890)第一高等中学校(現・東京大学教養学部)教授。31年(1898)フランスに留学し、帰朝後京大講師を務めた。大正6年(1917)御歌所寄人、翌年から臨時編修局編修官などを歴任した。12年(1923)没。他に「豊島の戦い」を作詞している。
 また作曲者の岡野貞一(おかの・ていいち)は、明治11年鳥取県邑美郡(現・鳥取市)に鳥取藩士の子として生まれた。東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)を卒業後母校で放鞭をとった。本校校歌作曲当時東京音楽学校助教授であった。文部省唱歌教科書選定のため渡欧。後文部省唱歌作曲委員となっている。唱歌・歌曲・校歌などの作曲が多く、「春が来た」「日の丸の旗」「紅葉」「春の小川」「朧月夜」「水師営の会見」「故郷」などが有名である。
 昭和27年(1952)に本校に赴任された旧職員の滝本泰三先生が、1997年7月1日発行の『江原会会報第25号』に校歌採譜の思い出を寄稿しておられる。それによると、新入生の校歌指導をしようにも制定以来年数も経っており、しかも元の楽譜もないので当時の大西校長の指示で、職員の中に熊中の卒業生が3人いたので歌ってもらって採譜したということである。その時「3人の先生方の歌は三人三様で、少しずつ節が異なるのです。その中一番それらしかったのが今は亡き小野崎先生でした。然し音楽的にみて不自然な音の動きもあり、私なりに決定版を作り、指導を始めました」という。その後この滝本先生採譜になる校歌を熊高の校歌として、代々の卒業生は歌ってきたのである。これが現在は「いわば正調の校歌」になっているのである。

 本校創立80周年の年に『江原創立10周年記念号』(明治43年10月30日発行)が寄贈された。そこに制定時の校歌が載っている。現在の校歌の楽譜と比較してみると若干の相違はあるというものの、曲の心と雰囲気はほとんど同じといえ、さすが専門家による採譜と思わせる。80周年当時学校の方でも検討した結果、現在の形のままで行くことにしたという学校の談話が「熊本日日新聞」に載っている。

(続きは、近日公開します。)